普通って何だ?

多くが「普通」を目指します。
個性的な行動をする人も、無意識にそうしている部分はあるでしょう。
が、そもそも普通って何?という話です。

単なるマジョリティ(多数派)?

多数派に属していれば安心ということでしょう。
「群れ」を作ることにより自らを守る本能ですよね。
責任が分散できて個が目立つことは無いし、集団の力による防御力も発生する。
労力とリスクは最低限になるでしょう。

それがゴールなのであれば理解できなくもない。
そこに属したいとは思わないけど。

それを求めているとしたら、なぜ?

恐らくそれは、自然とそうしているのだと思います。
としたら、本人にも分からないでしょうね。

ただ、全員が「普通」を求める価値観に統一されてしまうとちょっと危険。

もし群れが危険な方向に進んでいるとしたら全滅してしまいます。

そこで「変わった人」が必要になります。
そうすれば全滅を避けられますから。

その人が群れを率いるのか、それとも群れは全滅してもその人だけが生き残るのか
それは分かりませんし、場合に夜のでしょうけど。

という極端なケースを論じていきたいわけではなく、先が見えない変化の時代においてはどうあるべきなのだろうか?というのが大変気になるところ。

変化に対応すると言っても、リアルタイムで対応する方法もあるし、直感で先読みをして、それに対して備えるやり方もある。

これまた正解は無いのでしょうけど、そんな時こそ色んな人が必要なのではないでしょうか。
色んな価値観を持った人が、色んな事をやってみる
そんなのが大事なのだと思います。

しかし、一般的に人が感じる恐怖の対象の一つは「分からないこと」。
その「分からないこと」に対してどのようなアクションを取るのか。

萎縮して視野を狭めて守りに入るのか
逆に視野を広げて多くのトライをするのか

どちらを選ぶも自分次第。

どうせなら面白い方を選びたいものです。
この「面白い」という感覚も人それぞれで、何をもって「面白い」とするのか、これも問題なのですけどね。

でも確かなのは、現状のままで満足いかないのであれば行動を変えるしかない。
それは確かでしょう。

そうしたら、そのうち面白いことになっていくかもしれません。
原因と結果はセットですからね。

比較からの解放

優劣や順位
自分の存在意義を感じたりするためには必要な感覚かもしれません。

学生は、小さい頃から順位の比較によるプレッシャーにさらされています。
それはシステムとして形づくられていて、もはやそれ以外の選択肢は見当たらない感じ。
もはやそれが常識。

で、時として思うのです。
この順位付けのプレッシャーが幸福感を感じられない原因ではないかと。

レースだのコンペティションだの言ってる人間がこんなことを思うのはどうなの?
とも思うのですが、そもそもそういったものと、学校の成績におけるものは違うのです。

レースとかコンペティションは、自分の外の領域に価値が置かれています。
他と競うことを楽しんでいたり、エンターテインメント的な要素があったり、そのために自らのパフォーマンスを高めるわけです。
もちろん学生のコンペティションであれば、それによって得たものは、彼らが社会に出た後に公共に向けて役立てることになります。

対して、授業とか受験とか、そういったフィールドの順位付けは、あらかじめ決められた項目にする限定的な能力にたいするもので、その成果の価値の置き所が内的なもの。
いずれ世に出た後に役立てられるときが来るのかもしれませんが、学生でいるうちはそういったことを実感できません。
良い成績や順位を獲得したところで、その時点では何かの役に立っている実感が得にくい。喜んでくれるのも、せいぜい身内か限られた知人くらいのものでしょう。
なので、モチベーションを上げにくい。

本当は、そういった限定的な領域での能力だけでなく、自ら自由に選んだり、創り出したりする機会があっても良いと思うのです。
だって、社会に出たらそれこそが求められる能力の一つになるのだから。

あと、競うときの形態も重要です。
一人で机に向かうばかりで無く、仲間と力を合わせてお互い伸すくれた能力を出し合ったり助け合ったり。
社会に出たら、一人にやらなければいけないなんてルールはそうそう無いわけで、むしろいかにチームでうまいことやるか、というのが大事だったりするわけですよ。

なので、チームでプロジェクトを成し遂げるような活動を、もっと重視すべきだと思うのです。

キミはどこへ向かっているのだ?

将来の希望はあった方が良い。
もしエンジニアになりたいなら、それを実践する機会を掴んでおいた方が絶対に良い。
これは経験上確信しています。

一つ明確に言えるのは
おぼろげながらでも何かしらの希望があるなら、それが叶う可能性は大小あるだろうけど、そのためのことをやった方が良い
ということ。

そのフィールドに身を置いて諦めずに継続すれば、きっと大きなものが得られます。

自分が何をやりたいか分からない?

そういった場合、周囲と同じように具体的な業種とか企業とかを決めないといけない、と思っていませんか?
でも、具体的なゴールでなく、何かしら得たい感覚みたいなものがあると思うのです。
そのために何かをやったら良いと思う。

人に言われたからとか、皆がやっているから、なんて動機でやることなんて、大して役に立たない気がするのだけど、どうなのだろう?
これまた経験上思うことだけど。

だってね、景品開発だってサービスだって、大抵の仕事はそうだと思うのだけど、皆がやってることなんて「普通」であって、商品としての魅力は無いんじゃないの?
まぁ「普通」を理解しておくことは大事なのかもしれないけどね。

そもそも「普通」をキッチリやるのは大事かもしれないのだけど、普通を目指して普通のことをやるのと、その先を目指して普通を通過点とするのは大きく異なります。

生真面目な普通の人は、キッチリ段階を踏むのだろうけど、そんなのまどろっこしくてやってられない、って人もいるわけで、そんな場合は一足飛びでその先の理想にチャレンジして良いと思うのです。

で、「ありゃ?何か足りないぞ」と思ったら、後戻りしたって良い。
そういうのって一見無駄なようだけど、実はそうでもない。

というのも、「ありゃ?何か足りないぞ」と思っていると言うことは、その足りないものを欲しているということ。
そう、その足りないものを欲する動機があるということです。

対して、ゴールが不明確なまま段階を踏んでいるうちは動機が弱いので、その過程で掴んだものをうまく利用できなかったりします。
ペーパーテストなんかはうまいことやるのでしょうけどね。

動機が弱いまま、普通のことを着実にやっていくやり方はあっても良いのかもしれないし、そういう人も必要なのかもしれない。

でも、そうじゃない道があっても良いと思うのですよ。

え?そんなやり方でうまくいく保証はあるのかって?
いやいや、着実な方法でうまくいく保証も無いのですよ。

キミの感性は何て言ってる?