「考える」ということ

最近、学生達と話していて気になることがあります。
分からないことが発生したら
「じゃ、調べてみます」
とくる。

良いんですよ、調べるのは大事なことです。
でも、行動の大きさというか、「枠」(わく)というか、戦略と戦術みたいな上位下位で言うと…

「考える」という大枠の中で、その中の手段の一つとして「調べる」があるべきだと思うのですよ。
だって、調べて分かることって、すでに誰かがやったことでしょう。
疑問に対する解決って、別に過去に誰かがやったことじゃなくても良いはずです。
むしろ、だれもやったことがない解決方法の方が価値があってエキサイティングでしょう。

調べて分かることは、既存の、答えがあること。
まさに定型的な「お勉強」で正解を出すプロセスですね。

それに、ここまでインターネットの利用が日常化したら、そうなるのは当然でもあります。

そこで出てくる「正解」は、間違えてはいないかもしれないけど、たぶん面白くはない。
ぶっちゃけ、あまり価値は無いってことです。
まぁ、無難ではあるでしょうが。

でも、そういったことって、夢工房でやっているような活動をするからこそ気付くわけで、恐らく多くは、そんなことなど気にすることなど無いまま世に出ることになるのでしょう。
なんか、もったいない気がします。

単に正解を知ったら、それを沢山知ったら、成長したと言えるのか?
そんなことはありません。
成長を構成する要素の一部ではあるかもしれませんが。

間違えていようが、レベルが低かろうが、自分で考えてみて欲しいのです。
成長のプロセスの入り口って、そういうものですから。

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