教育はどう変わるか?

大きな教室で、皆に同じことをやらせるのは、これからの時代にそぐわないのではないか?
なんて思うのです。

いや、ちょっと違うな。

大きな教室で、皆に同じことをやらせる
これはあって良いと思う。

それとは別に
少人数で皆で力を合わせて、好きなことをトコトンやる
そういうのも必要だ

ということかな。
自分に合った方を選べば良いと思うのです。

そんな二つの選択肢があったら、みんな好きなことをやりたいに決まってるじゃん!

そう思いますか?
多分、そうでもないですよ。

好きなことをトコトンやる
という道を選ぶと
好きでもないことは犠牲になります。
要は、好きなことを選んで、自由を得た代償は発生するということです。

そして、尖った能力を身に付けなければならないということになります。
まぁ、「身に付けなければならない」というと聞こえは悪いですが、そういう風になりたいと思う人が、そういう道を選ぶ自由があって良いと思うのです。

繰り返しますが、代償は発生します。
自由に決めて、好きなようにやる
形にするためにはトライ・アンド・エラーが必要。

これは、自分で決めなければいけないし、できるかどうか分からないことに挑戦するということです。
それをメリットと感じるか、デメリットと感じるか。

では
大きな教室で、皆に同じことをやらせる
という環境は、無難で代償が無いのか?
というと、そうでもありません。

まず、自分でゴールを設定する能力は低くなりそうです。
そりゃそうです。
常にゴールを設定するのは指導者で、課題を与えられる立場ですから。
逆に、そういったことを考える必要は無いということでもあります。
それをメリットと感じるか、デメリットと感じるか。

自発的にチャレンジしてくれる人も、オーダーに対してキッチリやってくれる人も、世の中には両方必要です。
前者と後者を比べて優劣がどうの、という問題ではありません。
結局、自分は社会でどういう役割を果たしたいのか?
ということなのです。

現在、高校も大学も、自分で学校を選んで行っているわけですが、行った先では
「やっている」というより
「言われたことをやらされている」というのが現状でしょう。
「自発性」と言ったところで、言われたことに対して予習するとか、その程度です。

そういうやり方では、払うリスクは最低限でしょうけど、得られるものは均質でソコソコになります。
価値観にもよりますが、それこそがリスクだ、と思う人もいます。

でもまぁ、完全にどちらか一方ってのも無いとは思いますけどね。

さあ、果たしてそのままで良いのか?
多分良くないですね。

動力の話その7 拡張されたエコシステム

動力の話からは外れてしまうかもしれませんが、実は動力はこういった全体の一部なのです。
ということで話を締めくくりたいと思います。

そもそも、道具やテクノロジーを持たなかった頃の人間は、食べたもののカロリーによって、体を動かすというシステムです。
とはいえ、その食物も自然界から得ていたわけですが。
そして、自然は主に太陽からのエネルギーで成立していたりするわけで…
結局のところ、人が摂取できる食料も持つカロリーと、体力で仕事量が決まる。
記事にはしていないけど、、道具の工夫も重要な要素。
そんなエコシステムです。

今回の動力の話は…

人の持つ限界を超えるために、より力の大きい家畜の動力を使った。
当初は、ものを運ぶとか、畑を耕すといった仕事だった。
エネルギー源は自然から得た餌。
これにより、楽に大量の仕事ができるようになった。
設計要素としては、家畜に取り付ける器具や道具。

その後、機械を組み合わせて、水を汲み上げるとか粉を挽くといった発展をした。
しかし結局は、動物の持つ力の限界や、安定性などが限界になる。
しかし、機械要素の設計技術は発展。

そこで、力の発生源そのものを機械化する。
システム全体が人による設計となる。
エネルギー源は、餌から化石燃料へと変化。
より安定した仕事、よりパワフルな仕事ができるようになった。

そんな風に、動力源を家畜から人工のものに置き換え、エネルギー源は化石燃料を用い、ますます楽に大量の仕事ができるように発展してきましたわけです。

そして、そこに制御が入り、自動化ができるようになりました。
当初は機械による制御でしたが、後に電子制御になり、コンピューターが発達して、より安価で高度な制御が可能となりました。
加えて通信技術が統合されて、遠方からの制御も可能に。

そして今、この地球規模で制御が可能となった巨大なエコシステムに、人工知能が加わりつつあります。
それと同時に、エネルギー問題と環境問題が顕在化しています。

巨大なエコシステムを維持・発展させるには、膨大なエネルギーが必要です。
巨大じゃなくても、文明を発展させるためにはエネルギーが必要。

エネルギーを消費すると、基本的にCO2が出ます。
人だって、家畜だって、機械だって
動作時はもちろん、作るときも、処分するときも
CO2を出すな、というのは、発展するなというのと似たようなものです。

果たしてどうなることやら。

動力の話その6 ガソリンの正体

ダイムラーとベンツガソリンエンジンで走行する自動車を開発したわけですが、その当時ガソリンがあったのか?一体何に使われていたのか?

実は当時(1880年代末〜1890年代初頭)、ガソリンは一般人が手軽にどこでも入手できる燃料ではありませんでした。

19世紀後半(1870〜1890年代)は、ランプの燃料として灯油が主流でしたので、当時の石油産業の主目的は、原油から灯火用の「灯油(ケロシン)」を得ることでした。
ちなみにそれ以前は、鯨から採った鯨油や植物油がメジャーな液体燃料でした。

原油から灯油を精製する際、副産物としてガソリンが生成されてしまうのですが、引火性が高く、危険で厄介な物質とみなされており、多くは捨てられて、一部は化学実験用や洗浄用として用いられていました。
なので、今のように手軽にガソリンスタンドで給油できるようなシロモノではありませんでした。

有名なエピソードに、開発者ベンツの妻、ベルタ・ベンツのドライブの話があります。
ベルタは、夫に内緒で試験走行を敢行したのですが、燃料は途中で切れてしまいました。
そこで彼女は、薬局に立ち寄って燃料を購入しました。
そう、薬局で燃料を購入したのです。

当時、薬局では「リグロイン」または「ナフサ」という名で販売されており、これはガソリンとほぼ同等の化学物質でした。
ちなみに、その時の薬局は現在、「世界初のガソリンスタンド」として記念館になっているそうです。

参考:当時のガソリンの入手経路
薬局(薬品として販売) 化学溶剤・洗浄液として少量販売(高価)
化学商(薬品卸) 実験用・工業用ナフサとして扱いあり
石油精製所の副産物 灯油精製の副生成物として廃棄同然に存在

ダイムラーやベンツは、直接化学商や精製所と契約して入手したそうです。

このように、動力用の燃料の歴史は
薪 - 木炭 - 石炭 - ガスやガソリン
と移り変わってきたわけです。

薪の持つエネルギー量を1とすると、木炭は2で、石炭は2~2.5くらいの違いがあるという話はすでにしました。

ガソリンは薪の3倍のエネルギー量を持ちます。
液体燃料のエネルギー密度は高いのです。
なので、より軽量で動力の性能が高い機関を作れる可能性があるということです。

また、原油からは、重油、軽油、灯油、ガソリンなど、多様な燃料の他、アスファルトやプラスチックなど、様々なものの原料も得ることができます。
ただ、困ったことに、埋蔵量には限度があり、CO2排出の問題もあるのです。

単に動力などのためのエネルギーとして「電気と入れ替えればいいじゃん」とならないのは、その電気ですら石炭やガスや液体燃料からのエネルギー変換で生み出されるもので、自然から採掘されるわけでは無いし、原油のような原料を生み出すわけでもないので、電気とガソリン、どっちがいい?といったような単純な話では無かったりするのです。

ちなみに、ニコラ・テスラによって、交流モーターが発明されたのは1888年です。
1821年のファラデーによる電磁回転運動の発見から実に60年以上経って、電動モーターが生まれたということです。

そして、1892年には、 ディーゼルによって高効率内燃機関であるディーゼルエンジンが発明されました。

ヘンリー・フォードが自動車を製作したのは、ダイムラーとベンツによる自動車の発明から10年くらい後の1896年です。
その頃、世には蒸気自動車と電気自動車、ガソリン自動車が混在していて、蒸気自動車が一番パワフルだったのです。
そして、エジソンは仲良しだったフォードに、「ガソリン自動車は有望だから頑張れ」と言ったそうです。

つづく