文句言っている暇があったら何かやろう

前にも似たような記事を書きましたが
今の世の中色々あって
文句の一つもいいたくなることがあるでしょう
コロナ禍もありましたしね。

ただ気をつけて下さい。

行動せずに文句を言う
これは自分では無く
他のせいにする
ということです。

ということは
自分には非は無いから
変わらなくても良いということです。

文句を言う相手にやって欲しくて言うのでしょうけど
言われた方は
やりもしないひとも文句言われても
こっちだってやりたくないよ
と思うのが関の山。

…と
文句を言っている人に
文句を言いたいわけではなくて

もしここで
自分にも何かできるはずだ
と思って行動すると何が起きるか。

ちょっとは何かが変わるはずで
誰かがちょっぴり喜んだり
自分が成長したり
良いことが起きるはずで

それをしないのは
もったいない話しだなぁ
と思ったのです。

まぁ、色々文句言いたくなる気持ちは
分からなくも無いのですが
それをやっていると
確実に自分の行動に影響が出ます。

仕事なんかだと
文句を言われないための仕事
をするようになります。

「結構なことじゃないか!」

いえいえ。
文句を言われないための仕事を全うすると
何があるか?

安心です

成果としては最低限
ということになります。

それで十分ならそれでも良いけど
安心は喜び未満なので
幸福とはちょっと違います。

それに
安心に到達するまでは
不十分で不安だということですよね。

そこまでは基本的に
マイナスでネガティブということでしょう?

その状態で
良い仕事をするって無理なんじゃないかな。

それに
ここで言う安心とか不安とかは
あくまで自分の話であって
一緒に仕事をしたり
仕事の成果を受け取る相手はどう感じるでしょう?

例えば
お客さんからクレームを付けられることが無いように
という仕事と
お客さんを喜ばせるための仕事
これ、全然違うでしょう?

でも分かっていても
いつの間にか
文句を言われないように仕事をする
とかいうことになっていたりしませんか?

これ
「何のために」
がどこに向いているか
という話しなのでしょうけど

皮肉なことに
「何のために」
が、自分自身に向いていると
最終的には
自分のために
すらならなかったりしますよね。

逆に
「おや?」
と思って
自分にも何かできるはずだ
と、行動を起こせるなら
何かがちょっぴり良くなって
似たような人が集まってきて
ハッピーな環境が作れるのではないかな。

別に今日、何か嫌なことがあったわけではなくて
コロナ禍が収束するかどうかという昨今
これからはこの辺を見つめながら過ごさないと
成長のチャンスを逃してしまうな
なんてことを考えていました。

気付いている人にはチャンス到来です!

でっかいところから行こう

仕事としてやっている人には常識ですが
「もの」はでっかいところから行きます。

分かりにくいですね。
こういうことです。

夢工房の学生達が
レーシングカーを作ってますが
どんなクルマにしたいの?
という大枠から各部が決まっていくわけで

決して細部の設計からスタートして
最終的に全体ができあがるわけじゃないよ
ということです。

「細かいところからやったら
こんなんなっちゃった」

そんなやり方したら
最後までクルマの形なんて分からないでしょう?

それじゃ
頑張っても報われないですよ。

なので
「最終的にこうしたい」
というゴールを最初に設定して
そのための設計をするのです。

もっと大枠から考えるなら
「こうやって勝ちたい」
という戦略を考えて
次に、そのためのクルマを考える。
そのためのチームを考える。

こういう枠で考えるなら
クルマはそのためのツールにすぎないわけです。
そのツールをどうするかは
戦略によって決まるということです。

そんなの当たり前なのですが
学生にとっては新鮮
というか、信じがたいのかもしれません。

だって
ずーっと
細かいところから始める
というやり方でやってきたのですから
最初は仕方ないですけどね。

なので、大学で勉強しているのに
「将来どうしたいの?」
と聞かれても返答に困る学生がいるのは
当然といえば当然ですね。

細かい要素的な勉強を
頑張って積み上げれば
そのうち何とかなるだろう
ってやってきたのだろうから。
周囲もそう言っていただろうし。

さらに言うなら
理工系の学生って
基本的にテクノロジーとか要素好きなんですよ。
なので、小さい単位の何かに惹かれるとか
拘りを持っちゃう傾向が強いのだと思います。
そういう気持ちは良く分かる(笑)

でも
夢工房に来たら逆になっちゃうんですよ。
でっかいところから行かないと
何のために何をやっているのか
どうしたら良いのかが
分からなくなっちゃって
迷走する。

とはいえ
急に今までの考え方をひっくり返すのは難しいことです。
そう、考え方を変えるって難しいんですよ。
一番大事なことだと思うんですけどね。

The true story of 二宮尊徳

むかしむかし
二宮尊徳(二宮金次郎)が
お殿様の命令で
下野の国(今の栃木県)にある
桜町というところの復興に向かったそうです。

その時、お殿様は
補助金を出そうとしたのですが
尊徳は断ったそうです。

「仁術を施せば
貧しい村を救えるはずだ
金銭をあげても
苦しんでいる人を救うには何の役にも立たない」
と。

「仁術」(じんじゅつ)
あまり聞き覚えの無い言葉ですね。

仁徳を他に施す方法
ですって。

「仁徳」(じんとく にんとく)
これもあまり聞かないでしょう。

民の辛苦を除き喜びや楽しみを与えようとする徳
だそうです。
これ、たぶん
辛苦から脱してから
喜びや楽しみを得るんじゃなくて
順番は逆だと思いますけど。

結局のところ
日々の生活に
喜びや楽しみを見いだして
苦しみから脱することで救われる
ということですね。

喜びや楽しみ たって
一時的な快楽じゃダメなんでしょうけどね。

小学校に
二宮尊徳の像があったりしませんでしたか?
薪を背負って本読んでるやつ。

あれを
仕事しながら勉強していて偉いねー
ではなくて
どういうことをした人なのかを
もっと伝えないとイカンと思うんです。

おっと、そうじゃなかった。
今回話したかったのは
尊徳がお殿様に言った
「金を与えてもダメなんですよ」
ってことと
喜びや楽しみによって
苦しさから脱する
というところなんです。

非常に回りくどい話になっちゃって申し訳ないのですが
学校で
「これ知らないと良い給料もらえないぞ」
「会社に入れないぞ」
なんてことを言って
色々と(価値の源泉ということで)知識を覚えさせたって
幸せにはなれんだろうよ
ということなんですよ。

200年も前に
小学校に像が建っちゃうような偉い人が
大事なことを言ってるじゃんか
って。

そりゃぁ知識は大事だと思います。
でもそれを
むやみに与えれば良い
というものではないでしょう
と言いたいのです。

それを欲しがって
使うことに喜びを感じられれば
そりゃぁハッピーでしょうけど
欲しがってもいない人に
無理矢理押しつけても
良いこと起きないのではないかな
と思うのです。

もちろん持っているだけでも何も起きません。

「何も無いよりマシだろう」
本当ですか?それ。

尊徳は
一度、桜町で農民や役人に指導した際に
彼らが従ってくれないので
引きこもっちゃうのですよね。

「ああしろ!こうしろ!」
言ってもダメだった。

で、民を従わせるのではなく
地域の復興こそが大事なのだ
と考え直したそうです。

あ、こういう話
子供達にしちゃダメだな。
というか、話せないな。
従ってくれなくなるもんね。

そうか!
だから先生は
薪背負って本読んでた
なんて言ってたのか。

あ、イカン!
脱線したままで終わってしまう。

そうそう!
なので、学生達が自分達の好きなことに一所懸命取り組む
これは幸福の根源なのではないかな
なんて思ったりしているのです。
仕事だってそうですもんね。