日本人の仕事に向き合う心

働き方改革って
労働時間短縮して効率上げよう
みたいな感じですかね。簡単に言うと。
他にも色々あるようだけど、その辺がメインでしょう。
日本人は長時間働き過ぎだと。
少子高齢化する今後を見据えて
グローバル化した世の中で競争力を上げましょう
ってことですよね。

「何で日本人ってそんなに残業するんだ?」
これね
前職でイギリス人とイタリア人のエンジニアと
仕事してるときに言われたんですよ。
オーストラリアの人にも言われたな。

その時
「ハッ」
としました。
理由、分からなかったんですよ(笑)

でも
別に残業が嫌だとは思っていない訳です。
車の開発やってる時って残業を命じられた記憶はない。
たまにはあったとは思うけど。
なので
「好きでやってるんだな」
と思いました。
まぁ、仕事は山ほどあって終わりがないんですが
どう進めるかは自分の裁量である程度決められたんですよ。
でも、やれるときはやれる限りやっていました。

まぁ、このへんは人によって様々だと思いますが。

キリスト教圏では
つまり欧米では
労働は神様から科された負荷という概念…で良いのかな。
だから基本的にやりたくないとか
だからこそ神に捧げる崇高な仕事をするとか
向き合い方は色々あると思うけど
基本的には労働時間短縮に対しては
大きな価値を感じているのではないかと想像しています。
ヨソの国の人と宗教に関する話をしたがらない人もいるけど
この点は、そのうち機会があったら誰かに聞いてみます。

日本では
神様ですら仕事をなさるわけですよね。
農作業とか機織りとか。
天皇陛下だって皇居でお田植えをなさるくらいなので
旧来から仕事とは尊いもので
忌み嫌う対象ではない。
なので、そもそも労働時間を短縮したいという意識は
あまり強くなかったのではないかと思っています。

仕事に対して
できればやりたくない
という層は古今東西を問わず
一定数いるわけですが
それはこの際置いておきましょう。

でも
働き方改革とか言って
まずルールを設定して
労働時間を短縮させて
効率を上げる
って順番おかしくないか?
って思うんですよ。

まず労働時間という枠を狭めた環境で
時間という重要なリソースを縮小した中で
知恵を絞れって事でしょう?

まず今の枠
もしくは枠を広げた状態で
選択して
集中する
ってのが筋なのではないかな。

とか思っているんですが
「政府に反対しようぜ!」
なんて言いたい訳ではありません。

自分たちの代表として選ばれた人たちが決めたことだから。
できれば信頼してお任せしたい。

何が言いたいのかというと
まず、仕事に向き合う「心」を何とかしようよ
ってことです。

仕事の効率が上がらないって
労働時間とかスキルとかの問題では無いでしょう。
そんなの結果に過ぎないから。

何かをやるって
まず意識
つまりその人の心があるんじゃないの?
で、各人の心が
何をやるか・やらないか
どうやるか
を決めているんでしょう?
だったら、その心の部分を変える
意識を変えるような取り組みが先ではないでしょうか。

そもそも
仕事に意味とか価値とか感じられなくて
面白くもないのであれば
「効率上げろ」とか言われても無理でしょう。

仕事が面白くなるように意識を変えない限り
行いは変わらないので
結果は変わらない。

ブラック企業とかもそうですよね。
労働時間が長いことがブラックなんじゃなくて
仕事に「心」が無いからブラックって呼ばれるんじゃないの?
利益ばかり見て
仲間とか部下のこと考えないとか。

もしくは
仕事の意味とか意義とかを見いだそうとせず
悪いとこばかりを見たり
単に労働時間だけにフォーカスしちゃうとか
そうしたらブラック企業に見えるかもしれません。

すっごく残業したって
そこに心があるなら
自ら進んでやりたくなってる仕事なら
やってる本人はブラックなんて思わないよね。

時間を短くしておいて
その状態で効率上げろ
って、そのアプローチこそがブラックっぽいですよね。

法律とかで縛りを設けておいて
「効率上げないと大変なことになるぞ」
みたいな事になったら
仕事している人の心は
まるで奴隷みたいじゃないですか。
そんな奴隷的な心で良い仕事しろ
効率上げろって無理ですよ。

労働時間が長いままで成果を大きくしろ
って言ったら
高度経済成長の時みたいに
馬車馬みたいに仕事をするようになっちゃう
とか思ってるのかな。

ならないでしょう!
時代背景が違うんだから。
というか
ならないようにする工夫することが大事なんじゃないかな。

規則で何とかするなんてのは
現場の工夫ではどうしようもない場合の最悪の時の対応でしょう。
…というようなことは
企業で働いた経験がある人ならみんな分かってるんじゃないかな。

「えーっと、規則ではどうなってたかな-」
で、行動を決めるより
「そんなの分かってるよ」
と自発的に動いた方が
より良いでしょ。
どう考えても。

規則で縛ると
大抵のものは最低限になっちゃったりしませんか?

当然だけど
規則で心を縛って良い仕事させようなんてのは無理なんだよなぁ。
なので結局
これって政府主導で何とかなる問題じゃないんじゃないかとも思います。

さらに言うなら

色んな人がいて
色んな考え方があっていいけど
おおらかさを許容できない方向に
社会が向かってるのではないかと思えてなりません。

おおらかさを失って
正確でなければいけない
明確でなければいけない

そうなりすぎてしまうと
考えの幅が狭まってしまって
事によっては考えなくなる。
みんなが考えて工夫する余地がなくなってしまう。

近年は
色々ありすぎて
みんな心がしぼんじゃってませんか?
だったら
それを何とかするのが最初ですよね。

まずルールで何とかしようなんてのは
人の心や力を信じてないやり方ではないでしょうか。

労働の効率とか生産性が重視されるのは分かるけど
もし
欧米の物差しで同じようなやり方をしなければならない
なんて思っているなら賛成できないな。

そんなヨソの価値観とかやり方に従ってやったら
やる前から負けるのは確定している。
我々の強みを活かさなければ競争力なんて得られるわけないでしょう。

いずれにしても
過去の歴史から強みを引っ張り出して再考して
日本人の仕事に向き合う心の再構築が必要なんじゃないかな。

と思う今日この頃。

仕事のお話@学校

大学にいると
就職に直面した学生にも接するわけで
色々考えるわけですよ。

そもそも不思議なのは
仕事って他人のためにやるものなのだ
とか
人を喜ばせてナンボだ
という本質的なことは
不思議なことに学校では教わりませんよね
ってこと。

ですよね?
教えてるところもあるかもしれませんけどね。
でも、ほとんどの学校ではそんなこと教えないのでは?

結果、学生達は
「どんなことをしたら(自分が)儲かるか」
とか
「(自分が)就職するためにはどうしたら良いんだろう」
ってことを考えている。


「これからの仕事のトレンドは何だろう?」
(そして「それは自分にできるだろうか」と続く)
とか
「資格を持っていたら就職に有利かなぁ」
(そして「何も資格がない自分は大丈夫かなぁ」と続く)
とか思い悩む訳なんですね。

就職を前にして考えていることは
心配ごとばっかりな訳ですよ。
そりゃうまくいかねぇだろうなぁ
と思います。

だってそうでしょ?
仮に就活で面接したって
自分が儲かることばかり考えてたり
心配で心配でしょうがない
そんなの(っていったら失礼ですが)を採用したくはないでしょう。

まぁ、うまいこと演技して会社入っちゃうこともあるかもしれないけど
(大抵はバレますが)
問題はその先ですよね。

でも
そうなっちゃうのは当然といえば当然で
仕事の本質
というか
構造みたいなものを
ちゃんと学校でちゃんと理解させているかといえば
そんなことはないですよね。

とここまで書いて思い出しました。

確か社会の授業かなんかで
「労働の提供と対価」とか何とかやりましたわ。やった!
ちっとも理解してなかったけど。
ということは
今もきっとやってるんでしょうね。
でも、本質が理解されてるかは疑問です。

「労働の提供と対価」
かぁ
この表現良くないなぁ。
仕事って、やらされるもんだ
っていう空気感に満ちてませんか?
「食うために仕方ないから我慢してやるもんだ」
という。

じゃぁ、収入って「我慢代」か。
大学出て40年以上我慢し続けて人生終えるのか。
そりゃぁ大変だなぁ。

何のためにどのように仕事をしようと
それは人の勝手といえば勝手ですが。

「労働の提供と対価」
じゃなくて
「価値の提供と対価」
の方がすっきり理解できそうな気がしますね。

仕事って
「相手が喜んでくれる価値を提供して、それに対する対価を受け取る」
ってことでしょう?
それが本質でしょう?

嫌々我慢して生み出した何かに対価を払う
って誰もやりたくないでしょ。

食うために仕方ないから仕事する
ということが仕方ない場合もあります。時として。
それは実体験もあるので良く理解できる。
色んな仕事したから。
無職も数回やったし。

でも、そういう姿勢で仕事の成果を生み出すと
その価値は最小限になっちゃうよね
ということが言いたいのですよ。

同じやるなら
パッションでしょ!
お客さん喜ばせちゃうぞー!
という。
それこそが価値の最大化の根源ではないかな。

基本的には
どんな仕事でもそうでしょう?

まぁ、好き好んで大学に行ってるわけだから
自分が好きな分野でそれができたら最高だよね!
ということですよ。

なので
何度も言ってる気がしますが
好きなことを仕事にすべきです。
困難があっても諦めずに頑張れるからね。

好きなことを仕事にするからこそ
人のために頑張って成果を出せる。

「じゃぁ、お前は好きなことを仕事にしたのか?」

と聞かれると困っちゃいますね。
なんせ「学校」って最も嫌いな組織でしたから(笑)

でも、大学に呼んでくれた人は、1960年代ホンダF1の開発者の佐野彰一先生
私にとっては神様みたいな人ですよ。
断れるわけないじゃないですか。
いくら学校が嫌いだからって行きますよ!

で、来てみたら
頑張る学生がレーシングカーとか惑星探査機とか作るわけですよ。
勝つぞ!
って。

大学は「技術は人なり」とか「実学尊重」とか
本質を突いたことを看板にしてるし。

そんな環境で頑張ってやらんわけにはいかんでしょう。

このところ
コロナで自粛でしょう?
にもかかわらず、1年生なんかはオンラインでガツガツやってます。
日々、感動と発見の連続ですよ!

そう
好きじゃない仕事でも
好きになっちゃうという方法もあるのですよ。

できないことなんてない

言いすぎかも知れませんが
あながちそうとも言い切れません。

大学で学生と接していると思います。

技術や知識が何かをできるようにしているわけじゃないのだなぁって。

だってね
どんなに勉強ができたって
何か作れる
何かができる
とは限らないんですよ。

授業で成績優秀な学生に
「何か作ってみ」
と言っても
できるとは限りません。
成績が悪い子でも同様ですけど。

私も工科系の大学を出てますが
授業を受けてるときに思いました。

「この勉強で、自分の好きなクルマとかバイク作れるようになるんかなぁ?」

それは卒業まで確信に変わることはありませんでした。

もちろん授業の内容が全く役に立たなかった
ということではないですよ。

でも、いける気がしないままでした。
これで何かができるようになるとは思えなかったのです。

なので、在学中はレースばっかりやってました。
もしくは、江ノ島の堤防で昼寝してるか、バイトしてるか。

そんな話じゃタイトルと違うじゃないか!

そうですね。
本題はここからです。

冒頭の方で

どんなに勉強ができたって
何か作れる
何かができる
とは限らないんですよ。

と言いました。
これは事実だと思いますが

勉強ができるできないに関わらず
やりたいと思ったことは結構できるもんだ

ということが言いたいのです。

だってね
ろくにモノをつくったことがない学生が
レーシングカーを作れるようになるんですよ。

海外なんて行ったこともないのに
マシンを輸出する手続き取ったり
現地で色々やったり。

勝つためにマシンを作ろうと思ったら
強度計算とか解析とか設計とか実験とか加工とか…
それこそ山ほどできなきゃいけないことがあります。

でも、彼らはそれをやってますからね。
ほとんど自力で学んでいる。

一応、教員として私が面倒を見ていますが
別に授業みたいに
「はーい、これから車の作り方を教えますよー!」
なんてやってませんから。

分からないことを聞かれたら答えることはありますけどね。
燃える学生の背中を押すのが役目です。

なので
初動は学生自ら
です。

恐らく
教員が手取り足取り
アレやれ!コレやれ!
みたいにやってたら、こんなに大変な活動は
これほど長年続かないと思います。

やはり学生自身がやる気にならないとね。

そのパワーの源って、自身の心ですよね。
「やるんだ!」
っていう気持ち。

彼らのやっていることを見ていたら
「あぁ、できないことなんてないんだなぁ」
って思いますよ。
人の心の力って凄いなぁと思います。

あの巨大なギザのピラミッドとか
墳墓としては世界最大級の仁徳天皇陵は
いずれも完成するまでに20年ほどを要したと言われています。

その結果分かったことは

奴隷を使った労働では不可能であった

ということ。
そんな大規模な大事業は
力で無理矢理やらせるようなやり方では
必ず奴隷の反乱が起きて
継続できずに破綻するはずで
自発的な労働であっただろうということです。

自身がが「やる」と決めたら
凄い力が発揮できるということですね。