うまくいくかどうか分からない、未経験のことをやるのがチャレンジ。
うまくいくと分かっていることや、すでに経験があることをやるならチャレンジではありません。
新製品の開発なんかはチャレンジです。
夢工房にいる学生達は、将来開発者を志しているのでチャレンジャーです。
大学で教員をやっていて興味深いのは、入学してくる学生達は、チャレンジャーとしての資質を持っていないことが多いということです。
でも、物心つくかどうかという年齢の子供はチャレンジャーですよね。
自身の興味に素直に従って、できもしない余計なことをやるでしょう。
100%自発的です。
しかしその後、環境に適合して、徐々に従順になっていって、チャレンジしなくなっていきます。
「良い子」の完成です。
学校では、全くチャレンジせずに、言われたことをキッチリやり切ったら最優秀です。
でもそれ、社会から求められているのでしょうか?
というところで話を戻しましょう。
新製品の開発にはチャレンジが必要です。
チャレンジは、外発的な動機で、覚えた知識を単に吐き出すことではありません。
多くの知識を持っていることは大事です。
しかし、それをどう使うのかがもっと重要。
その「どう使うか」は何によって決まるのでしょう?
それを知識として授業で教えたところであまり意味はありません。
なぜって、もしそれを教えたところで、教えられるものは既存のものであり、古いものであり、さらに言うなら自分のものではありません。
もちろん過去の事例として、先人の事例を知るのは大いに意味があることです。
でも、それだけでは不十分だということはすでに見えています。
というのも、本を始め、ネット上でも先人の努力や工夫の情報は山ほどあるわけで、それは日々増えていて、容易に手に入れることができる。
そういう情報に触発されて、日々チャレンジャーが増えているかというと、そうでもないでしょう?
結局は心の問題ですよね。
パッションとか、動機とか、ビジョンとかね。
そういったものが知識とかスキルとかを駆動しないとチャレンジはできない。
道徳教育などはとても大事だと思うのだけど、そちらはどちらかというと「静」の心の動きですよね。
でも、「動」の心の動きも育まないとバランス悪いと思うのです。
しかし!
ですよ。
分かります。
パッションとかチャレンジとかはね、面倒なんですよ。
労力必要だし、うるさそうだし、リスクがありそうでしょう?
うまくいくかどうか分からないけどやるって、そういうことですから。
何事にも負の側面というか、ダークサイドはあるわけで、そういったことも含めて飲み込まないと、教育ってうまくいかないんじゃないかな。
なんてことを偉そうに考えてみました。
「できることをやりなさい」
よりも
「できるかどうかは、やってみないと分からないじゃん!」
の方が楽しいと思うのですけどね。
新製品とか新技術の根源にあるのは、そういう気持ちでしょうし。
というわけで、夢工房の学生達は、日々自分の心と向き合って、チャレンジャーとして成長していくわけです。