想像・創造 そもそもの話

私の周りには、エンジニア志望の学生達が沢山います。

エンジニアとは言っても色々あるわけですが、クルマやバイクをはじめとする製品の開発者ということであれば、必要な資質はある程度明確です。

知識やスキル、それはもちろん重要です。
技術屋さん志望ですから。

製品の開発者といっても色々な人が必要なのですけど、基本的には新しいものを作る人であって、競争力がある製品を作る人です。

競合製品に対して何かしらの優位性が無いとお客さんは喜んでくれないでしょう。
レーシングカーを作るのであれば、ライバルに対して優勢が無いクルマは商品性がありません。
もっと簡単なところで言うと、「違い」を作ることが重要です。

で、ですよ。
違いを生み出すのは、作る人です。
当然ですが。
違いを生み出したいと思わない限り、違いは生まれません。

しかし、そのための想像力、創造力の源となる、マインドというかスピリットというか、そういうものはどうやって育むべきなのでしょう?

そりゃぁ、日頃からそういうことを考えて工夫する環境に浸かっていなければ無理でしょう。
「会社に入ったら」
と思うかもしれませんが、こういう基本的な考え方というか、価値観というか、そういうものは若い頃に身に付けるからモノになるわけで、年取っちゃうと難しくなります。

それに皮肉なことに、良い会社に入るために誰かに言われた資格やら学歴やら、皆が同じようなモノを持っていると、入社試験の面接担当は
「あぁ、この彼も同じことを言ってるなぁ」
と感じるのですよね。

学生達は、言われたことをやって、合格点のような何かしらのボーダーを超えれば合格すると思っているかもしれませんが、忘れちゃいけないのは、ヨソと違った事をやるのが開発業務のミッションとなるということです。

我が国の教育システムには、そういう違いを生む心を育む仕組みが無いように思います。
逆に、違いを許容しない仕組みばかりで構成されている。

そりゃ、社会に出たら困惑するし、難しいことになるでしょう。

これは個々の学生にとっても問題でしょうし、社会の問題でもあると思います。
そもそも、同じことをする者が集まった群れが進む方向に困難が待ち構えていたらどうなるのでしょう。

というわけで、真面目にお勉強するのはもちろん大事なのですが、それは一体何のためなのだ?というところを意識して、想像力、創造力を使って独創性とかチャレンジ精神を育む必要があるのは間違いないわけです。
今後、実用的なAIが台頭してくるのですからなおさらです。


我々を駆動するもの

外的な動機によって、まるで「煽られて」いるように、仕方なくやっていることが日常生活のうちにどれだけありますか?

自身の「やる気」によって、つまり内的な動機で自ら駆動しているのが一番健全ですよね。

いずれも「やっている」という部分だけ見ていると、とても似ていて区別が付きにくいかもしれません。
本人にも自覚が無かったりするのではないかな?

でもやはり、内的な動機の方が成果は出やすい。
というか、内的な動機であれば自ら成果を望むのだから当然ですが。

例え外的な動機であっても、考え方によって内的な動機に変換することはできます。

それは…

面白くしてしまうこと

とはいえ、面白くするためには工夫が必要で、工夫をするにもモチベーションが、つまりやはり内的動機が必要になります。

うむむ、これもやはり鶏が先か卵が先か状態です。

そこで思ったのは
そもそも、自分はどういう人になりたいのかというマインドセットが大事なのではないか
ということ。

例えば
アイデアを形にするエンジニアになりたい
としましょう。

であれば、アイデアを形にするというスキルが必要で
それをアウトプットするという行動も必要です。

で、真面目な多くの人が考えるのは
「じゃぁ、まずはそれらを手に入れないと」
となるでしょうけど、それをやっちゃうと、パフォーマンスが不足している現状と向き合わなくてはならないので、モチベーションが下がりがち。

なので、まずは自分の立ち位置を決めてしまいましょう。
自分がなりたいのは
「発信する側の人間」なのが
「受け取る側の人間」なのか
です。

気をつけて欲しいのは
あくまでも「自分がなりたいのは」です。
人に言われたからとか、リスクがうんぬんとかではなく、いかに純粋に自分が望んでいるかが重要です。

この場合、根拠は要りません。
実力とか自信があるとか無いとかではありません。
希望で良いのです。
希望は強ければ強いほど良いです。
まずはそれが最初です。

強力な希望こそが、強力な駆動力になるのです。

すると、あら不思議
立ち位置が決まると、自ずと必要なことが見えてきます。
もっともこの場合も、モチベーションの高さによるとは思いますが。

そう
求めよ、さらば与えられん
です。

強く求めもせずに、小さいことをチマチマ集めても、それが魅力的な何かを形づくったりすることはありません。
ビックリするくらいありません。
ホントですよ。

環境の威力 ひっくり返すにはチャレンジが必要

コミュニケーション力の問題
その根底にあるのは、こんなものだったりします。

失敗したくないから
傷付きたくないから
損したくないから

もちろん
上手にできないので恥ずかしいから

なので、できればやりたくない

つまり
ノートライ・ノーエラーの価値観がさらに根底にある
多分これは間違い無いでしょう。

コミュニケーション力は、その一端として現れているだけ。

これは今に始まったことではありません。
昔からあった。
そして日本に限ったことでもない。
どこにでもある。
程度問題だけど。

失敗は「損失」であり、「悪」であるとする価値観

そんなのは昔からあったのだけど、徐々に強化されてきたのでしょう。
問題として噴出するのは、何かにとって耐えられない状態になってきたから。

小さな子供だって失敗すれば恥ずかしそうにするけど、そんなのは大したことなくて、放っておけばいくらでも恥ずかしいことをします。

彼らはそういった経験から学んでいくのだけど、放置はいけません。
道徳観念とか、マインドとかスピリットなどは環境から学んでいきます。
その環境を作るのは年長者です。

その年長者の行動の動機が恐れだったとしたら…
何かしらの罪悪感とか、景気の低迷とか…それはもう色々あるでしょうけど
だとしたら、若年者に対しては「失敗しないように」導こうとするでしょう。

「失敗して欲しくない」という彼らの希望の押しつけ、というか、この場合は「願い」なのかもしれませんが、それが環境を形づくってきたなら、こういう状況になるのも仕方ないと思います。

なので、彼らに「何でそうなんだ!?」と彼らに問うても分からないでしょう。
実はその答えを知っているのは我々年長者だったりしませんか。

学習にしても、学歴や資格にしても、その先に望むのは成功では無く、失敗しないこと。

希望校に合格して欲しい、希望の会社に入社して欲しい
失敗せずに。
その価値観の刷り込みをしたのは環境であり、年長者でしょう。

しかし、夢は無い。
夢を追求すると失敗してしまうから。

そう、成功にたどり着くまでは、全て失敗だから。
最終的なゴールに対しては不十分な状態が続くなわけで、極論するとそれらは全て失敗です。

結果として、失敗はしたくないので、知識を身に付けて、学歴というチケットで入場できるところに入って、失敗しないように無難にやっていく…
こんな出来なりの未来にするしかなくなっているのでは?

しかし、成功に至る失敗を含むプロセスにこそ学びがあるわけで、うまくいくための知恵や工夫が生まれたり、成功するまで継続するために必要なメンタルタフネスが身に付いたりするのです。

というわけで、この問題は若年者のせいにするには的外れだけど、年長者のせいにしても自覚も無ければ責任も取れない。
皆で何とかしていくしかないと思います。

そう、皆でチャレンジするしかない。
夢に向かって。