「能力」って何だ?

そもそも「能力」って何なのでしょう?

辞書を引いたりネットで検索すると色々出てきますが、私はシンプルに
可能にする力
だと思います。

というところで、改めて意味を調べてみましたが、あながち外れてはいませんね。

学校は、能力を身に付けるところ
とされています。

ですが、それは知識の獲得に偏重しています。
そして、知識の獲得とは言っても、暗記するようなものがほとんど。

何度も言いますが、知識は重要です。
でも、「知っている」と「できる」は違います。

そもそも、自ら掴みに行くのではなく、何に使うか実感が無いまま、皆が同じことを記憶しなければならない。
そういった状況で、多くは疲弊してしまう。

知識は、言ってみれば道具のようなもので、「可能」にするために必要な要素の一部です。
精神面の駆動力たるメンタルやマインド、モチベーション、これが無いと起動しません。
そして、当然ながら物理的な駆動力であるフィジカル、これが無いと実行や継続が不可能。

これら全てが無いと「可能にする力」になりません。

知識もスキルも、必要性を感じた時点で手渡すのが最も効率が良いはずだし、自ら掴み行けばそれが最善。フィジカルも必要性を感じれば自ら獲得するでしょう。
なので、メンタルやマインド、モチベーションを高めるのが最重要だと思います。

しかし、本人の意思とは関係なく、多くの知識を詰め込むようなシステムになっているのが現状でしょう。
そういったやり方で、心が疲弊していくなら「できるだけ楽をしたい」と思うのは当然かもしれません。

今後の日本は少子化に伴い、労働人口が減少していく。
今までのような、高度経済成長期のような、低コストの大量生産は継続できません。
となると、量ではなく、質・信頼・速度などを付加価値として、それを優位性・独自性となるレベルまで高める必要があるのは明白でしょう。

それは、低いモチベーションで、皆が同じことをするようなやり方、やらされるやり方では達成不可能だと思います。
それには、パッションやアイデアが不可欠だから。

ならば、各人がそれぞれ個性を発揮して、強みを伸ばす方向性。
それぞれが自信を持って「可能にする力」を身に付けられる環境が必要です。

自己を高めるということ

皆と同じようなことができなければならない
そう思うのは自然なことかもしれない。

しかし、それが才能とか資質を殺しているかもしれない
というお話しです。

皆と同じことができなければならない
他と異なることをしなければならない
そんな二つの矛盾の狭間に若者達(年長者も?)は生きています。

製品の開発者やアーチストなど、プロになってしまえば、さほど矛盾に悩むことは無い。
業務の内外で使い分ければ良いから。

レーシングカーを作っている学生などは

「そんなことに夢中になるのはいいけど
学生の本分は勉学なのだから」

と言われることがあるでしょう。

一体、何のための勉学なのか?
他と同じことをすることが勉学なのか?

差別化、競争力、独自性、優位性…

そういったものが必要ならば、何も他と同じでなくても良い。
むしろ、同じではダメだ。

皆が同じように、決められたことができなければならない
そういったことを欲する人もいるでしょう。

そういう前提であれば
「劣っているところを持ち上げる」
といったこと、マイナスをゼロにするようなことが必要でしょう。
そういうニーズに対しては、それが成長として必要なことなのかもしれない。

しかし、できること、好きなこと、得意なことを強力に伸ばしていく
それも成長なのですよ。

もし、高みを目指すなら、それら二つは、恐らく階段のように連なるものではない。
マイナスをゼロにしてからその先へ…
そんな風にできるのが理想なのかもしれないけど、そうはいかない。
大抵は、マイナスにフォーカスし続けてモチベーションが下がる。

いずれか一つを早期に選んで、強力にプッシュしていく。
今こそ、こうして自己を高めていくことが必要なのではないだろうかと思う。

その根拠?

そんなの簡単で、これまでのやり方の結果が現在なわけで。今の社会の状態ですが。
これは「やり方」よりもむしろ「方向性」の問題だと思うのですよ。
「内容」よりも「システム」かもしれないし
「知識」よりも「考え方」かもしれないけど。
そうしたらこうなりませんか?

リーダーはリードする…のだよ

「リーダー」を辞書で引くと
「指導者」とあったりしますが、それはリーダーの果たすべき役割の一部ですね。

一般的に、リーダーの役割は、人々をまとめ、導くこと
という認識でしょうか。

何に対して導くのか?
それは、未来に設定したゴールに対してです。

複数人のメンバーに対して、リーダーは一人。
なので、リーダーシップを持つのは一人で良い?

確かに集団を束ねるリーダーは一人が良いでしょう。
「船頭多くして船山に上る」とも言いますし。

しかし、相手が人に限らず、仕事をゴールへリードしていく資質というか、気概というか、そういったものは多くが持つべきです。

複数の学生で何かを作るようなプロジェクトの場合、複数の担当パートからチームが構成されていたりしますが、それぞれのパートが
「これは任せろ」
と自身の仕事をリードしていくようでないと、良い成果は出せません。

これは「責任を持つ」ということになるでしょう。
で、その責任を全うするために、自身の仕事のコントロールをしたり、リスクのマネージメントをしたりする。
とても大事なことです。

しかし最近
リーダーとしての資質やマインド、リーダーシップを持つ者が少ない
そう思いませんか?

そりゃそうだ。
言われたことができるようになるトレーニングばかりしていればそうなるでしょう。
言われたことをやるのも重要ですが、それはフォローであってリードでは無い。全く逆です。

優秀なフォロワーになる教育を、どこまで強力に推し進めると、優秀なリーダーが誕生するのでしょうか。
そりゃ無茶だ。

これは邪推かもしれませんが、もし、皆が平等で公平で均一で均質に…というトレーニングをされていたら…?
そうで無いことを願いますが、皆が同じように先生の言うことを聞いて、同じように行動する…というロジックになっていたとしたら、リーダーシップを取るのは先生以外許されませんので、結果としてはリーダーシップを育むことは不可能でしょう。

そして
リスク回避が、賢くて、お得で、それが正義だ
という価値観が幅を利かせていたりもする。

失敗するとリーダーは吊し上げられて攻撃されるというビジョンは容易に持てるわけで、そういう価値観を持つのは当然でしょう。

そういった単一的な見方になるのは、責任に伴うメリットが見えないのが問題ではないかと思います。
というか、責任を持つことに対するメリットを与えないのが学校でもあります。
そもそも、学生に責任を持たせないのが基本的な方向性でもあるわけで。

リーダーには責任がある。自由は責任を伴う。
これは言い換えればリスクがあるということでもあるが、そのリスクを負うことに対するメリットが無い。

それが無ければ、モチベーションが上がらなくて当然でしょう。

というわけで、このような現状を作り上げているのは環境です。

え?先生だろ?
と言いたいですか?
そうかもしれません。

でも、先生だって学校の方針に従っているわけで
学校だって文科相に従っているわけで
文科省だって政府とか過去の事例とかに従っているわけで…

なのですが!
自分以外の何かのせいにしても、何も良くなりません。

なので我々は、自分達にできる範囲で何とかしていく必要があります。
もちろんそこにもリスクはありますが、何かを得ようとしたら、リスクを払うのは当然のことです。
何を払って何を得たいのか
ということを明確にする必要があります。

ただ、学生に関して言うなら、払ったリスクに対する見返りが得られる日は来ます。
もちろん保証は無いけど、チャンスは来る。

それを信じて、組織に限ったことではなく、自身を、仕事をリードできるようになると良いですね。