分かっているようで分かってない

また今回も誤解を招きそうなネタですが、行ってみましょう。

学校って、勉強させるでしょう?
まず勉強ありきですよね。

それは良いんですよ。
基本的な、誰でも知っているべきことであれば。

でも、そこから自分の志向する分野へ枝分かれしていきますよね。
だって、人はそれぞれ特性や為すべきことが違うんだから。
自分が好きなことをやればいいんですよ。

そんな風になるのを専門化と言うのでしょうけど、それは、自分が望む分野の仕事をするためです。

もう一回言います。

自分が「望む」分野の仕事を「する(やる)」ためです。
それが理想です。

学校では色々やっているようですが、授業に関して言えば、「やる」じゃなくて「やらされる」経験ばかりです。

何でこうなっちゃうかというと、お上から「こうせい」というお達しがあったりするのでしょうけど、教員が、「教育とはやらせることだ」という概念を持っているからでしょう。

正直なところ、私も当初はそう思っていました。
いかに「教えるか」。
平たく言えば、「言ったことを覚えさせる」みたいなことです。
当然、「言って」「やらせる」ということになります。

その前提としては、「コイツら分かってねぇんだから、言って聞かせないといけないのだ」「そうしなければ何もできないのだ」という固定概念があります。
さらに言うなら「どうせ自分から学ぶなんてことはできないのだ」とも思っています。

そんな調子で、基礎から専門分野の応用まで、ずーっとやります。
ではないですね。
ずーっと「やらされ」ます。

中には、そういうのが好きだったり、うまくいっちゃったりして、「やらされる」から脱する者もいます。
しかし多くはそうではない。
多くは、やらされるのにウンザリして、うまくいかなかったりします。

でも、「これができないと…になっちゃうぞ」みたいに脅されて、それが動機となって、仕方なく勉強をします。

「仕方なく」なんて言い過ぎだって?
いやいや、だって授業が休講になると喜ぶじゃないですか。
私もそうでしたよ。
お金払ってるのにね。

学校では
「やる」ということはイコール、「やらされる」ということである
という奴隷的なマインドを強化しています。
乱暴な表現ですけど、そんなことになっていると思います。

この価値観が固まると
「仕事とは、言われたことをやらされることだ」
ということになるでしょうね。
そうしたら「社畜になんかなりたくねぇ」となるのも分かる気がします。

長くなりましたが、今回何が言いたかったかというと、そもそも学校でやるべきことは、やりたくもないことをやらせることではなく、「やりたい」という気持ちを高めて、その状態で自主的に知ったりやったりしていくべきだと思うのです。

かつての夢工房の学生達は、勉強ができない者も多かったのですが、色々とものを作ったりしていく過程で、何がなんでも良いものを作りたくなって、自然と、もっと良いものを作るには知識や経験が必要だ!ということになって、結果的に凄いことをやっていました。

それは、「これができないと…になっちゃうぞ」という恐怖が原動力になっている場合の成長とは比較になりません。

私は、その光景を目撃して考えを改めたというか、目が開きました。
「コイツら、好きなことを全力でやらせたら凄いんじゃん!」って。

でも多分、多くの先生方には理解できないことだと思います。
だって、強烈な動機に突き動かされて何かをやったと言うより、そういう経験無しで勉強ができたからこそ先生をやっている人がほとんどでしょうから。
これ、先生に限らず、お上の皆様も同様なのでしょうね。
なので、「このままじゃもうお終いだ!」という状態にならない限り、基本的なシステムは変わらないでしょう。

でも、諦めるわけにはいかないのです。
変わるのを待っている場合ではありませんので、やるべきことをやります。
チャレンジのための夢工房ですから。

私のような大したことがない人間が偉そうなことを言いましたが、これは単に経験の違いによって見えるものが違うというだけの話です。
逆に私には、お勉強ができる人達が見ている景色は見えませんから。

できない理由は、できる理由に変換できる

夢を持ったり、未来に対して希望を持つのは良いことだし、とても大事なこと。

もちろん、自分がそれを「やる」のであれば。

「できると思っているけど、やらない」
なんてことがあったり
「やりたいことをやらない」
なんてこともあったりします。
言ってる自分も耳が痛いですが。

それらは「できない」と言います。

「あとでやる」は、「やらない」と同じです。
「あとでやる」と思ったことは、大抵はやらないし、時間が経ってからやっても価値は半減しています。
それに、そう思った「今」は「やらない」ことを決断しているのだから。

こんなこともあります。
「あとで」「やる」は
自分は、やらなければならないと思っているけど、やらない状態だったりもします。
つまり、やらなければと思っている自分自身に対して裏切っている状態です。
これ、想像以上に自分に対するダメージがあります。
痛みは感じなくて、むしろ気持ちよかったりします。やらないので、肉体的には楽なのです。
でも繰り返すと、やりたいことがどんどんできなくなっていって、やりたいことをやらないのが普通の状態になります。

「やらない」は「できない」と同じ。
やらないことができるはずはないから。

大事なことは…多くの場合、これらの「できない」のほとんどは自分で決めた結果だということです。
習慣化されていて意識されていないと思いますが。

それでもいいや
というなら、特に言うことはないのですが
そんなのイヤだ
というなら変えてみましょう。
方法はあります。

小さなことでも良いので、自分がやるべきだと思ったことをすぐやる
そんなトレーニングをしましょう。

これが「できる」に繋がっていきます。
小さなことで良いのです。

多くの場合、小さなことをバカにしてやらないのです。
でも、小さいことと大きなことの境目はどこにあるのでしょうか?
多分、無いです。

小さなことは、身の回りに沢山あるはずです。
なので、やろうと思ったら沢山試せます。
沢山やったら習慣になるので、小さなことでなくてもできるようになるでしょう。

いまくいくようにやりたいという気持ちは理解できるし、それが動機であるべきですが、そのためにはすぐにやることです。ダメでもいいから。

そう、ダメでもいいんですよ。最初は。
一番ダメなのはやらないことなのです。それが本当の失敗です。
ちょっとやってみてダメでも、諦めなければ何とかなるもんです。

それに、どんな結果が出ようと、最低でも「やろうと思って、やった」という経験が残ります。

「あとでやる」が習慣化してしまう理由は、やらされる経験が多くて、そもそもやりたくないとか、やらされるとやるの区別が付かなくなっているとか、そもそも自発的に行動した経験が少なすぎるとか、失敗が怖いとか、それはもう色々理由があるのかもしれませんが、そんなのはどうでも良いことです。

すぐやるようにして、継続する
これができるだけでも、そこそこの結果は出せますよ。
というか、それが成功の秘訣だと思っているのですが、どうでしょうか。

「偉そうなこと言って、お前成功してんのか?」
と言われると困っちゃいますが、経験上うまくいったことって、大抵はそんなアプローチでやってましたから、あながち外れてはいないと思います。
というか、そんなの常識といったレベルかもしれませんが。

こうすればうまくいく 10

先日、ある人と話をしていて

「売る気が無いときに、お客さんのとことに行ったときに限って売れるんですよね」

という話を聞きました。
これまで色々と経験されている方で、かつて営業の仕事をされていたときの経験談でした。

「売る気が無い」って「やる気がない」じゃないですよ。

そういえば、私も似たような経験があったのを思い出しました。
30年以上前の話ですが、当時クルマのチューニングショップの店頭営業をやっていて、もの凄い売り上げがあった時ってそんな感じでした。

私の場合、お客さんとの対話を楽しんでいました。
その方、台湾から来た人だったのですが、現地でどんなことをやっているとかなんか、片言の英語で、とりとめのない話をしていた気がします。

最終的には、大量の部品を買ってくれて、持って帰れないので泊まっているホテルまで配達したら、別れ際に「お前には良くしてもらったから、これやる」って、ビンテージのジッポーライターもらって、「台湾に来たら遊びに来いよ」って言ってもらいました。

その後もヤバめのスジの人に気に入られて、「お前から車買うことに決めたから、なんか良いヤツ選んでくれ」なんてのもありました。ヤバそうだから売る気なかったんですけどね。

で、最近たまたま読んでいた本に、似たような話があったのです。
何とタイムリーなのでしょう。

その本には、他者に関心を持つことの重要性とか、自分だけに焦点を当てているとうまくいかない理由とかが書いてありました。

営業をしていて、(自分が)売りたい売りたいと思っている時って、当然ですが自分のことばっかり考えているわけで、そういうのってうまくいかないのです。

まぁ、そりゃそうだよねとも思います。
でも忘れがちなことです。

まぁつまり、利己的とか、自己顕示欲が強いとか、ナルシスティックなのはうまくいかないってことですね。
でももし、そういう状態でそこそこうまくいっているとしたら、そのリミッターを捨て去れば、凄いブーストが掛かるでしょう。

今回言いたかったのは、自分がフォーカスを当てる対象への矢印が、果たしてどこに向いているかってのが凄く重要だということです。
それが自分の内側なのか、それとも外側なのか。

そういうのって、相手は敏感に察知します。
実は自分だって分かっているはずで、感じ取っているはずです。
でも、自分が当事者になると忘れちゃったりするのですよね。

うん、自分で言っていて耳が痛いぞ。