セルフイメージが自分をつくる

勉強ができる人は良いのでしょうが、できない人は日々学校で、できない自分と向き合うことになるでしょう。

できないのはしょうがない、なんて言ったら身も蓋も無いですし、学校で勉強している以上、何とかしなければいけないでしょう。

ですが、できない自分にフォーカスしたところで良い事は起きません。

自身に対するイメージが、成果に対して大きな影響を与えている
というのは、海外のどこかで行われた実験で明らかにされています。アメリカだったかな?
IQが高かろうと低かろうと、自身が持つイメージが成果を左右するそうです。

自分はダメだ
と思うと、成果は出せません。

ダメだから成果を出せないのではなく、ダメだと思うことによって成果が出せないのです。

ネガティブなイメージがネガティブな結果を
ポジティブなイメージがポジティブな結果をもたらす。
考えてみれば当たり前ですが。

なので、何でも良いからチャレンジして、これならイケる!と思うものを一つでも掴むというのは大事なこと。

言われたことが上手にできなくたって、言われてもいないことができる可能性もあります。
勉学以外のことだって、そこから得られた経験や自信を他のことに活かすことはできます。
しかし、それに気付けるチャンスがあまりに少ないのではないかと思うのでした。

やってみると分かること

成功するためには
熱意とか勇気とか好奇心とか諦めない心とか
そういったもののワンセットが必要となる
とはいうものの…

これ、考えているだけでは良く分かりません。
やってみない限り、何が足りないか分からない。

ただ、経験があまりない場合は、やってみても分からないことも多い。

そんな時は経験者による評価が効いてきます。
そういう意味では学校という存在は大きい。

ただ皮肉なことに、現状の学校はマルかバツかの評価をする場所になっている事がい多いため、その環境に慣らされてきた学生にしてみると
不足しているということは不正解でダメなことだ
と判断する価値観が身に付いてしまうのですね。

確かにペーパーテストでは、そういうことになってしまうのですが、何かをできるようになっていくプロセスでは、不足している状態からどうしていくかが重要。

この現状からどう抜け出すか。
これは問題です。

考えてみれば最近の世の中は、多くのことがマルかバツかで極端に評価されているような気がしなくもない。
ちょっとでもリスクがあれば、それはバツだ!みたいに。
これも学校教育の弊害でしょうか。

「教え」は、教員からの一方通行で
その成果はペーパーテストの正解・不正解で測る
といったことを日々繰り返していたら、そうなるのも仕方ない気がします。

でも、そこから抜け出さないと、チャレンジはできないし、向上心も萎んでしまう。

ともかく
何が不足しているかを知りたい
足りないものが必要だ
と思う気持ちが重要です。

となると、スタート地点である動機が重要ということですね。
これ、知能とかそういうことではなく、心の問題だと思うのですが、どうでしょうか?

思いと考えの狭間に

さて、成功したいぞ!と思ったら、それを実現するためにはそのためのプロセスが必要です。

まず始めに、何を成功させたいと思うか、そこからスタートです。
ゴールを決めましょうってことですね。

この時にありがちな勘違いは、最初から具体的でなければいけないと思ってしまうこと。

最初は抽象的なことでも良いのです。
というか、最初はボンヤリとしたイメージで十分。
これからそれを具体化していき実現するのですから。
もちろん最初から具体的なゴールが突然設定されることもあるでしょうけどね。

で、最初に設定されたゴールは抽象的で、こうしたいという「思い」と言っても良いでしょう。

そこから具体化していくとともに、それらを細分化していきます。
抽象的なゴールは未来に起きて欲しい目標であって、具体化・細分化されたものは、現在に向かって逆算された手段です。

そう、こうしたいという「思い」を伴ったゴールの具体化には、一体何が必要なのか?

思いを実現するためのアイデアが必要です。想像力ですね。
そのアイデアを実現するためには、具体的な手段が必要になります。
この手段が、知識とかスキルとか経験とか、そういったものです。

それらを動員して、ああでもないこうでもないと考えることになります。

そう、想像力と知識やスキルと経験、そういったものを持ち合わせていないと、この「考える」というプロセスは成立しないでしょう。

ついでに言うなら、熱意とか勇気とか好奇心とか諦めない心とか…
そういったものも大変重要です。

そういった重要な要素をどうやって手に入れたら良いか?
それは未熟でも何でも、やってみるしかない。
やりながら手に入れるしかないのです。