やらせるからダメなのだ というか、やらせすぎたらダメなのだ

やることを決めて
やって良いことを決めて
それをやらせる

そんなことが多いと、やらされるのが嫌になります。
そんなことが続くと、それが習慣になります。

そんな内容を何度か記事にしてきましたが、それにはメリットもデメリットもあります。

メリットから行ってみますか。

貧富の差がない
ってのは最たるものかもしれません。

あと、やらせる方は楽です。
だって、やらせることは決まっているので、あまり考える必要ないのですよ。
それに毎回同じことを繰り返せば良いし。
正解がすでに決まっている同じことを繰り返すのだから、定量的に数値化しやすいってのもありますね。
なので、評価が楽です。
皆に同じことをやらせるなら、なおさらです。

自分で考えて決める必要が無い。
特に目標設定とか、そのための戦略とか、未来を予測するとか、そういった不確定要素について思い悩む必要は無い。
言われたことをやれば良いし、向かうべきところも指示される。

対してデメリットは…

トレードオフとして、尖ったヤツが少なくなる。
新しい発想が生まれないし、刺激が無い。つまり面白くない。
これは管理側としてはメリットでもあります。
色々違うことが起きたら面倒だから。

自分で考える必要があって、それを試さなければいけない。
これはリスクです。
ですが、言われたことをやっていれば、そういったことを考える必要は無いので、結果としてそういう能力は育ちません。

メリットもデメリットも、きっともっと色々あるのでしょう。

でも、正直なところ、ある程度自由を奪って強制される経験をしておくことも必要だとは思ってます。
それによって、いかに自由に価値があるのか、自由から価値を生み出せるのかが分かるからです。

とは言っても、自由の無い環境に慣らされてしまって習慣化されて価値観が構築されると、そこからはなかなか変われなかったりします。

金属だって、多少の変形を加えても、力を解放すれば元の状態に戻りますが、大きく変形させすぎると元のようには戻りません。
そういうの塑性変形って言うのですけどね、それと一緒です。

常識と自由

要求された正解を求める

正解が出れば安心。
それは現在の我が国の学校においては当然のことで、最も価値があることとされている。

でも、それは本当か?
これからもそうなのか?

そもそも究極的に、あらゆることには絶対的な正解があるのか?

当然、無い。

しかし、テストの問題のようなものには正解がある。
そうじゃないと点数を付けて評価できないから。

そういった勉学のような、知識を獲得する過程におけるものは手段的なものなので、ある程度結果が明確でなくてはいけないのは確か。

ただ、そこにたどり着くプロセスは自由なはず。

何かをするための手段であれば、その結果が明確でないと困ってしまいます。
やったら何が起きるか分からない…では、その手段は使えません。

学校でやっているお勉強は、そういった手段的なものです。
決して目的ではないはず。
ましてゴールでもありません。

何かのためにどんな手段を用いるか
その手段を用いる目的
最終的にたどり着きたいゴール

本来それらは自由なはず。
自分で決めるべきものです。

その自由を奪うのは目的がある。
もちろん自由を放棄したとしても、それにも目的がある。

その目的は常識という名の、目の前にあるのだけど誰も興味や疑問を持たない領域にそっと隠されている。

我々の常識は違う環境、例えば、異なる仕事、異なる国、異なる時においても通用するのか、というと、決してそんなことはない。

自由が不自由に勝るのか

それは分からない。
自由も不自由も、当然一長一短。

自由を求めるか否か、何に自由を求めるか、それこそも自由。

見えないリミッター

我々にとってコロナ禍とは一体何だったのか?

そんなことを今頃になって思い返していたりします。

我々年長者にとっては、長い「コロナ禍前」があって、人生のトータルで言ったら、コロナ禍はほんの一部。
なので、基本的な価値観にはさほど影響が無かった気がします。

でも、ちょうどその時に多感な時期を過ごしていた彼らにとっては、人生のうちの結構な期間を占めることになったわけで、その影響はかなり大きかったに違いありません。
「多感」どころか、あまりに刺激が少なくて抑圧されていて、それがそれこそ価値観の一部を形成してしまうほどの威力があったでしょう。

学生なんて、ただでさえやりたいことができないという経験が多いと思うのだけど、それがさらに強化されたわけで、そしていつまで続くのか先が見えない。

そんな状態では、未来を想像するのは難しいどころか、意味が無かったのかもしれません。
自由がないのは当たり前で、来るものを単に受け止めるだけ、オンラインで垂れ流される情報を受け止めるだけ。
そんな状態が続いていて、それによって価値観の基本的な部分の一部が形づくられていたとしたら…。

我々年長者の持つ基準や価値観と比べたら、そんなことになっていた、と言っても良いくらいなのではないかな、と思いました。

虫のノミっているでしょう。
ピョンピョン跳ねるヤツ。
アレをコップに閉じ込める。
すると、跳ねると天井にぶつかってしまうので、やがて高く跳ねなくなるそうです。
で、コップを外しても高く跳ねないまま。

魚を水槽に入れて、中にガラスで仕切りを設けます。
水中ではガラスの壁が見えません。
魚は、ガラスの見えない壁にぶつかって、その先に行けません。
すると、ガラスの壁の先に行こうとしなくなるそうです。
で、その壁を外しても、その先には行こうとしないまま。

そういうことなのだろうなぁ。
例えが極端かもしれませんが、きっとそういう風に、見えないリミッターが効いた状態なのかもしれません。
見えないリミッターはキツイです。
自分でもなぜそうなっちゃうのか分からないし、分からないものは手の付けようが無い。

ところが今年の1年生は、その効き目がちょっと弱くなった世代なのかな、と思うのです。
彼ら、結構グイグイ行きますから。
良い傾向です。

で、その影響がチームに及んで、皆でグイグイ行って欲しいものです。
自分だけで考えていても分からないことでも、他と比べれば気付くこともあるでしょうから。

きっと大丈夫!