先入観は手強い

人には先入観というものがありまして、過去の経験とか情報とかによって、観念が固定化されてしまうのです。

食べ物の好き嫌いなんて最たるものではないでしょうか。
幼少の頃に食べたものに対する負の印象を持つと、成長してからもその印象がなかなか消えなかったりしますよね。

恐らくこれ、生存本能なんかから来るものなのでしょうね。
身を守るための機能として。

食べ物なら
「なんか食感が」
とか
「苦みが」
とか、そんな感じ。
体が「それ食ったらヤバいぞ」と言っている。
アレルギー持ちでなければ、別に食べても問題はないのでしょうけど「何か嫌」ってな感じでしょう。
それは、対象に遭遇したときのファーストインプレッションで決まる。

ちなみに私、食べ物の好き嫌いはありません。
小さい頃はありましたけどね。

今では、好き嫌いがあるってもったいないな、と思うのです。
例えば、ピーマンが嫌いという好き嫌いがあったとしましょう。
とすると、世界一美味しいピーマンを楽しめません。
それは大変もったいないことです。

で、その好き嫌いというか、先入観を壊すと、その先が見えてきたりするわけですが、そういうのを楽しみとして味わえると良いのだろうなぁ、なんて思うのです。

というのも、学生の時は「学び」って、何に役立つか分からないけど、仕方なく覚えるものだったりするでしょう。全てではないけど。

エンジニアとして仕事をしていると、当然ながら色々と「不足」が生じるわけで、それはもう知識やらスキルやら色々ですが。
でも、それらを手に入れていくと、できることが増えたり大きくなったりするわけですよ。
それは「学び」ですよね。
その学びのプロセスは、とても楽しくて充実感があります。

しかし、「学び」に対する先入観が、学生の時に感じた
「何に役立つか分からないけど、仕方なく覚えるもの」
であり続ける限り
「仕事は言われたことを我慢してやらされるものだ」
という先入観が抜けない限り、楽しくはなっていかないだろうなぁ、と思うのです。

本当であれば、そいう言った先入観を学生のうちに壊して再構築できると良いのですけどね。
直感でものの良否が分かるようになるとか。
難しいかもしれませんが、大事なことです。

ワクワクか安心か

ワクワクと安心、どちらが欲しいですか?
喜びと安心と言っても良いですが。

夢工房で活動している学生達は、コンペティションをやってますので勝ちたいのです。
なので彼らは喜びが欲しい。

まだ途半ばですけどね。
まぁチャレンジャーなので、そんなものです。

喜びより安心が欲しいって人はいるのでしょうか?
いるかもしれませんね。

では、喜びが欲しい場合、どうするか?

まず安心できるステージを狙って、そこから喜びを得るステージへステップを踏むべき、と考えるのが普通でしょうか?
そんな気がします。

私はそれには同意できないのですよ。

例えば、夢工房の学生達が作っているレーシングカーは、競争して勝つためのものです。
その場合、「安心できる」ってどういうことでしょうか?

とりあえずちゃんと走るクルマ?
そういうのを作って、何が分かるのでしょう?
いや、それでも色々分かるとは思うのですけどね。

でも、安心するためのモチベーションと、勝つためのモチベーションって全く違います。
考え方もやり方も違います。

安心できるやり方に、どれだけブースト掛けたら勝てるようになるのでしょうか。
安心できるクルマを何百台作ったら勝てるようになるのでしょうか。
恐らくなりません。

なので、最初から「狙って」いくべきです。
もちろん、それでもうまくいかないと思います。
だって経験が足りないから。

でも、狙っていかないと見えてこないものがあるし、そうしないと得られない経験があるのです。

学校でのやり方で慣らされていると、最初は「基本から…」みたいなことになりがちではないですか?
確かに基本は大事なのですが、何を狙うかによって基本の捉え方や利用の仕方は違います。

仮に彼らが自動車メーカーに就職して
「最初は売れなくても良いから、取りあえず走るクルマ作ってみようか」
なんてことになるわけはありません。

最近耳にするのは、新入社員から
「やったことが無いからできません」
と言われる、と。

やったことが無いことができないのなら、自分はいつになっても今のまま。
いつになっても面白くなんてなりません。
そもそも、世の中に無いものを作り出す開発の仕事なんてできないでしょう。

「安定して高収入を…」が学びや就職の動機だったりすると、そういうことになるのだろうなぁ。なんて思うのです。

そんなことを考えると、これからの世の中はチャレンジャーの時代になることが明確だと確信するわけです。

組織の力とコミュニケーション

組織の力は重要です。
個人の力では大したことはできないから。

今やYouTubeなど、個人の力で価値を発信する方法はありますけどね。
とはいえ、力があるユーチューバーは、色んな人が関わって動画を作っていたりするようです。
もっともYouTubeというプラットフォーム自体、凄い人数で回しているのでしょうけど。

一人でやるには限界があります。
色々な能力を持った人が集まって力を合わせれば、相応の結果が出せます。

人が集まってできた組織が発揮する力は個人の力の集合体です。
その個人が持つ力は様々です。
皆一緒では困ります。

その様々な力を、組織の目標に向けて揃える必要があります。

ベクトルの考え方を理解できる人なら分かると思いますが、様々な異なる方向に向いたベクトルを合わせても、大した大きさにはなりません。
むしろ小さくなってしまうこともある。

なので、様々な力を持つ人達のベクトルが揃っている必要があります。

いわゆるイエスマンである必要があるということではありません。
ゴールを共有する必要があるということです。

そして、そのゴール到達のために、各人がどれだけ貢献できるかということが重要なのです。
各人がどれだけ力を発揮して、それぞれのベクトルをどれだけ強固に結合できるか。

しかしゴールのイメージやビジョン、その価値や優先度など、それらは黙っていては伝わりません。
一方的に言われたところで、その内容は理解できるかもしれませんが、価値を共有して同意するのは簡単ではありません。

独裁の権威主義国家などはその点有利です。
上からの命令に従わなければひどいことになるので、従わざるを得ない。

科学技術で目立たなかった国が、戦争となると突然凄い兵器を作ったりするのはそういうことだと思っています。
優秀な親分が号令を掛ければ、驚くようなスピードで物事が進みます。

しかし、我が国は民主国家です。
民主国家では、親分が号令を掛けても従わないという選択肢があります。
(各種規則や法的にどうかは良く分かりませんが、実際にはあるでしょう)

なのでコミュニケーションが大事なのです。
意見や価値観を擦り合わせて、ベクトルを整える必要があります。
そうしないと組織力は発揮できない。

まぁ、権威主義だろうが民主主義だろうが、組織力がものを言うのは変わらないってことですね。

しかし、今や個人の利益追求が正義となってしまった個人主義の我が国においては、組織の力を最大化するのはとても難しくなっていると思います。

もし「そこそこ楽して食えればいいや」と思っているなら、結果として楽では無くなります。それによって誰も喜んでくれないなら、楽しくも無いでしょう。
本人は言われたことをやるばかりの奴隷状態になるでしょうし、上司は一々指示を精密に設計しなければならない高負荷状態に曝されて、誰もハッピーになりません。

対して、組織への貢献で組織力を最大化するために、自分の強みを活かしてチャレンジしていくなら、仕事は自己の価値を実感できる楽しいものになるでしょう。
最初はヘマをするでしょうけど、いずれ理想へと収束していきます。
この場合は、組織が自己実現の場となります。

現在、十分なコミュニケーションが取れているのか?
それは、何のためにどの程度のコミュニケーションが必要なのかによって決まるかな。
そう、「何のために?」つまりゴールのビジョンが明確になっていて、その価値の共有ができているか?その辺が重要なのでしょうね。

コミュニケーション能力向上のためにはどうしたら良いのか?

それは
ゴールの共有と、到達のための努力の経験を通して身に付けるしかない
そう思っています。
そのためのコミュニケーションからスタート、ということですかね。

コミュニケーションはコミュニケーションでしか身に付かず、その程度は題材による、といったところでしょうか。
どうしても達成したいゴールがあって、密なコミュニケーションが必須なシナリオが必要ですね。

ま、言うのは簡単なのですけどね。
日々修行です。