学びって何だ?

この問いは、AIが実用段階になって、ますます発展していこうとする現在だからこそ、こういったことを考えておくのは重要だと思います。

一体何なんだ、学びって?

単に記憶するだけなら、それこそパソコンが得意なわけで、認知的な能力なんてのは、それこそAIに任せておけ、って話です。

物事を知覚し、理解し、記憶し、判断するといったことは、これまで人間固有の能力だとされてきましたが…何と、それが変わろうとしている。

もっとも、記憶領域の拡張ツールは、ずっと昔からあって、ノートなんかは代表的なものだし、録音や録画なんてのも該当するでしょう。

そう、それらは記憶領域を拡張してくれるのですよ。
だって、ノート取ったら覚えておく必要無いでしょう?音声や画像も同様です。

しかし、今回は記憶に限定されずに、一連の処理まで脳ミソの外に外部委託できるようになります。というか、すでになっている。
こうなると単に記憶に限らず、「能力の拡張ツール」と言うべきかもしれません。

しかし、この今起きている現象によって、改めて多くの人が「考える」とは何か?ということについて考えるようになってきたのではないでしょうか。

そして我々教育に関わる者も、「学び」とは一体何なのだ?という問いに直面せざるを得ないわけです。

というわけで、どうなるか分かっているものごとを処理するのは「作業」であり、これはAIに任せられそうです。
既知の理論とか法則に沿って問題を解く、なんてのはそれに該当しそうですね。

では、どうなるか分からないものごと、やってみないと分からないことに挑戦するなんてのはどうだ?チャレンジはどうだなのだ?
と思うのですが、コンピューターシミュレーションってのもあるわけで、実際にやらずともある程度は結果を推定できたりする…

ただこれ、今のところは環境などを100%考慮するのは難しいわけで、必ずしもシミュレーションで全てが分かるわけではありません。
なので、当面は人間にアドバンテージがありそうですね。
自動運転のクルマをすぐに実現するのが難しい理由の一つもここにあります。

では、「何のために?」というゴールを設定するための思考はどうでしょう?
そんなことを言うと聞こえは良いけど、「生きる」という本能的なところに根ざした根源的で動物的な考えだったりする気がしますが、意外とそんなところに答えがあったりして?
私ごときがこういうことを考えると、どうしてもシンプルなところに帰結したくなっちゃうのだけど、どうもそんな気がしなくもない。

というわけで、ゴール設定のための思考とチャレンジ、当面はこれでいけそうな気がするのですが、どうでしょうか?

いずれにせよ、これはしばらく試行錯誤しながら考えるべきテーマのような気がします。
恐らくAIの進化も、そういった道筋に沿っていくことになるのではないでしょうか。

「書く」の変化・考え方の変化

今や「書く」と言っても手書きとは限りませんよね。
むしろキーボードやタッチスクリーンでタイプする方が多いのではないかな。

さて、手書きだろうがタイプだろうが、文字や文章として「出力」するというのは同じです。
が、手段・手法がかなり異なります。

それによって何が変わるか?

やり方、考え方が変わってきます

そもそも昔の手書きは、墨を使った毛筆だったり、インクを使った硬筆だったり、一度書いたら消せない書き方。
加えて紙は今ほど安価ではありませんでした。

その後、消しゴムで消せる鉛筆やシャープペンシルが登場し、大量生産・大量消費の時代がやってきて、筆記具のみならず、紙の価格も低下。

そして現在、コンピューターを使った記述、記録が当たり前になっています。

これ、すでにお分かりかと思いますが、単に手段が変わっただけではありません。

書いた文字が消せるようになって、部分的に簡単にやり直しが利くようになった。

PCが登場すると、コピー&ペーストができるようになって、簡単に構成が変えられるようになった。

これらによって、考え方自体も変わっています。
やり直しが利かない一発勝負で文章を書くなら、最初から、構成はもちろん、細部の表現も確定しておく必要があります。
そのために「下書き」なんてものがあったりして、それを元に「清書」したりします。
もちろん下書きもやり直しが利かない筆記具で書くのですから、紙が沢山必要だったりしました。

それは消しゴムで消せるようになると、多少は緩和されます。
鉛筆で下書きしておいて、ペンで清書するといったことをして、効率が向上します。

コピー&ペーストができるようになると、考え方がかなり変わってきます。
全体校正を考えながら細部も同時に考えて…
なんてことは必要無くなって、清書をするフィールドに直接構成やら細部やらをとにかく書き出しておいて、後にそれらを合体させたり動かしたり、そんなことが簡単にできます。
なので、構成なのか、細部なのか、それとも編集作業なのかによって、考えをスイッチすることができるようになりました。
というか、そうなっちゃうでしょう。

つまり、かつてのように「全体を見ながら細部を…」のような、並列処理が必要無くなった。
恐らく、我々の日常の考え方も、そのように変化しているのでしょうね。
単発的に「部分」にフォーカスしていくような考え方に。

そしてこれからは、その「考える」すら、コンピューターにお任せ、という時代が到来しようとしています。

では、我々はどうすべきなのか?

AIにできるのは作業的な、定型的な「考える」です。
そのようなものの上流に必要なもの、それはゴールです。「何のために?」です。
そこにあるのは、気持ちとか、感情とか、思い、そして、それらに伴う思考、といったところでしょうか。

思い・考えとアウトプット

それらは密接に関連している、というお話しです。
正しくはアウトプットスキルと、かな。

この場合の「アウトプット」とは、話す、書く、など、自分が出力するもの全てを指します。

多くの学生は真面目なので、正しいアウトプットをしようとします。
…変なこと言って恥かきたくないだけかもしれませんが。
まぁ、気持ちは分かります。

なので、正しいアウトプットのための材料が揃ってからアウトプットしようとします。

しかし…ですよ。

思いとか考えをアウトプットする形にまとめるのは、スキルが必要です。
「今思ってることを言ってみな」
と急に言われても困りませんか?
けっこう難しいものです。

ところが、そのための手法やプロセスは具体的に示せません。
定型的にするのが難しいので、教科書などで学べないのですね。

では、どうしたらいいのか?

やるしかない
です。

ダメだろうがレベルが低かろうが、やってみて、その結果をブラッシュアップするしか無い。
そのへんは、AIの機械学習と一緒ですね。

そしてそれは、設計や製作なども同様です。
レベルを上げるにはやるしかない。

ただ、ブラッシュアップするには評価者が必要です。
別にテストの採点のようなことをしてもらう必要はありません。
アウトプットに対する反応から感じ取れば良いのです。
そして、それを元に改善していく。

その評価者は、時として友人だったり、先生だったり、家族だったりするでしょう。
大事なのは、色んな人に対してアウトプットしてみることが一つ。
そして、やはりメンター的な人との関係を構築すること。
社会経験豊富な年長者が良いですね。「人生の師」といったところでしょうか。

振り返ってみれば、私は多くの「人生の師」に恵まれてきたと感じます。
お陰で沢山の気付きを得ることができました。

それにしちゃパフォーマンス低い?

すみませんね。
これでも、かなりマトモになったんですよ。