どうなりたいのか?

昨日は「どうしたいか」でしたが
今日は「どうなりたいか」です。

「どうしたいか」は手段です。
なので、本来は「どうなりたいか」のために「どうしたいか」が決まります。

さて、この「どうなりたいか」は、未来の姿でも良いし、何かしらのゴールへの到達でも良いです。
未来のビジョンってヤツです。

それを実現するためには「手段」が必要です。
それが「どうしたいか」です。

この手段は、ぶっちゃけ何でもいいのです。

いや、もちろん目的を達するためのものである必要はありますよ。
そも、そのための手段の選択は、自分で決めて良いのです。

ですが、我々は学校で「やり方」を教わります。
そして、その「やり方」でやろうとします。
手段が限定されているということは、言ってみれば手足を縛られた状態です。

で、その不自由な状態を前提に
どうなりたいのか
なんてことを考えたりします。

なので、未来の想像がつきにくいし、苦しくなります。

だって、汎用的な手段をやってみたところで、その先がどうなるかなんて分かりませんから。

例えば、数学が得意で、凄く難解な計算ができたとします。
で、それができるとどうなるか?

そんなことは分かりません。

では逆に、宇宙が好きで、ロケットの軌道計算をしたい
とかなると、必要な計算が決まってきます。
でも、手計算でも良いし、コンピューターを使っても良い。

まぁ、一般的には手計算ができる方が、おかしな事が起きたときに気付いたり、新しいことも発想できたりするので便利でしょうけど。

でも、決められた一つの方法でやらなければいけないということは無い。
目的を達するために、新しい方法を考え、試すのは自由です。

スマホのメッセンジャーアプリで連絡を取る
それは一つの手段です。

でも、相手に連絡するのが目的であれば
電話を掛けても良いし、手紙でも良いし、直接会いに行っても良い。
その目的に応じて、ベストな手段を取れば良いし、新しい方法を試しても良い。

手段に縛られると、できることが限定されるので、それによってできることが限界になる。
その状態で「その先を想像しろ」とか言われてもね。

というわけで、手段は「どうなりたいか」で決まるのですよ。
なのでまずはゴールを決めましょう
というお話しでした。

どうしたいのか?

自分のやりたいことが分からない
自分のやるべきことが分からない

何じゃそりゃ?

と思ってしまうけど、今や意外と普通に見られる光景ではないかな
という気がする。
もちろん、この場合の「やりたいこと」とか「やるべきこと」は、趣味とか内的な満足で終わることではなく、自分の枠の外側と関係することです。
仕事なんかがそうですね。

一体何でそんなことになるのか?

それは簡単で、「やるべきこと」が与えられてきたからです。
なので、それに対して「どうすべきか」を考えてしまう。
「どうしたいか」ではなく。

これ、どう思いますか?

他から与えられる「やるべきこと」
与える方は、相手のためを思って(と思っている)「やるべきこと」を指示します。
そうすれば失敗がないとか、間違えないとか。

もちろんその価値基準は、自分が持っている価値観の物差しです。

その指示に従っている限りは評価されます。
出来が良いとか、真面目とか。
そして、メリットは、「やるべきこと」を考える必要が無いということです。

でも、「自分はこうすべきなのだ」という指針というか哲学を持つことができません。
もちろん、そういう状態だとチャレンジはできません。
他人から言われたことをやるのって、当人にとってはチャレンジだったりすることもありますが、あまりチャレンジっぽくは無いですよね。

で、最近気付いたことがあります。

「自分はこうすべきなのだ」という指針を持たない人って、文句が多くないですか?
まあ、それはそうなのです。
他人が決めた「どうすべきか」が意に沿わなければ、そりゃぁ文句も言いたくなるわけでね。

その辺が
ものごとを
他人ごととしてとらえるか
自分ごととしてとらえるか
で結果が変わってくるとか、そういうことなのでしょうね。

と、そんな偉そうなことを言ってる本人も結果を出さないとね。

これからどうするか

我が国が、これから再度成長路線に乗るとして、そのためにどうすべきか?
なんてことを考えるのは、教員風情には相応ではない…ということはありません。
サラリーマンだろうが、職人さんだろうが、皆が考えて行動すれば、きっとうまくいくからです。

先の見えない不安な環境では
いかに余計なことをせずに、手に入ったものを貯め込むか
といったことになりがちですが、それでは必ず行き詰まります。

不安な環境で、相応の反応をすると、ますます不安な状況になるというのは皮肉なものですが、そんなものです。

大事なのは
価値を生み出し、それを循環させること
です。

そのために必要なことは色々あるでしょう。
けど、組織において必要な力は、学校教育では重視されていないな、とふと思ったのです。

学校では、空くまでも個人の知識を中心に教育します。

反面、チームワークとかコミュニケーション力、独自性とか創造性は、ほとんど重視されません。
テストで100点を取るために、そういった能力は全く必要とされていないでしょう?
自分の頭の中にあるものを、上手にアウトプットすればOKです。
仲間で力を合わせたら、カンニングです。

そういった経験を持った者は、事に当たるときには一人で何とかしようとします。

ものづくりなんかは分かりやすいかもしれません。

一人でできることには限界があります。
どんなに天才君だってしかり。

会社を始め、何で組織があるかというと、一人ではできない規模やレベルの価値を生み出すためです。

対して、学校では、特に大学では、組織が向かう方向性が不明確で、個人主義です。
先生方も、「一国一城の…」といった感じです。

確かに、色々な人が色んなことを学んでいるのだから、統一のゴールは設定しにくいでしょう。
とはいえ、大筋の向かうべき方向性というか、ビジョンは持つべきです。
それがあれば、皆が力を合わせることができる。
知識やスキル、設備や施設などの共有や統合ができて、よりスピーディーに、パワフルに進むことができると思います。

もっとも、そうすることによるデメリットも発生するとは思います。
個人主義で、皆がバラバラでも、メリットがあるからそうしてきたのですけどね。

でも、今はどういう状況なのか
そして、これからはどうすべきなのか

デメリット側を見るのでは無く、欲しいメリットを明確化して、そのために変わるべき時です。

どうせこのまま行ったところでドン詰まりでしょう。

なので、どうすべきかを考えて、適切に変えていく必要がある。
でも、新しい時代に向けては正解なんて無いので、やってみないと分からない。
なので、アイデアを出してチャレンジすべき時なのでしょうね。