「やる」の戦略

私はこのブログで散々偉そうなことを書いていますが、まだまだなんだよなぁなんて日々思っているのです。
分かっていないことは沢山あるし、結構やらかします。
でも、分かったことや思ったことは明らかにしないとな、と思うのです。

私の「やらかし」には傾向があって、熟成不十分なままアウトプットするようなことが多いのです。
でもこれ、実はポリシーに従った結果なので、ある程度は仕方ないと思っています。言ってみればトレードオフです。
まるで現状を変えたくないがための言い訳のようですが。
今回はそれを説明しましょう。

そもそも、能力の高さで勝負することを捨てているというか、世の中優れた人が沢山いるので、そういう人達と真っ向勝負したら相対的な価値では負けるぞ、というのが前提だったりします。

良い成果を出そうとしたら、彼らと同じようにやったら負けなのです。
だったら、早期に未成熟な成果で良いのでアウトプットして、ブラッシュアップに時間を使って、最終的に求めるレベルに到達すればいいじゃん、という戦略です。

大事なのは、時間は有限なので間違えないように「考える」ことに時間を使い過ぎると、結局残されたブラッシュアップのための時間が無くなるので、早期に未成熟なものを勇気を持ってアウトプットすることです。

考えることはもちろん重要なのですが、むしろ「やる」ことに重きを置いて、それによって分かることでブレークスルーしようということです。

さらにこれ、「やらないと分からないこと」は、いわゆる暗黙知、経験知であって、以外と優位性があったりするのです。
何せ定型的な情報伝達では得られないことですから。

こんな風にやっているのを傍から見ると、デキが悪くてバカみたいに見えるかもしれません。学校なら間違いなく先生に怒られるでしょう。

なので、最初は勇気が要るかもしれません。
でも、繰り返していれば慣れますし、そのうち経験によってそれなりにレベルが上がってきますから、まんざら捨てたものでは無いですよ。

こんな風にやっているので、不十分な間違えたものを発信することが多いかもしれません。
いわゆるポカをやりやすいのです。

これ、恐らくレースとか前職で身に付けた戦略で、それが癖になっています。

スピードが最重要で、やってみないと分からないことばかりだったから。
他と同じことをやっても価値は無いし、良い仕事をするには、どうせトライアンドエラーが必要なのだから、まずはアウトプットしてブラッシュアップすれば良いのだ、という習慣ですね。

そもそもが、そんなにポテンシャルが高い人間ではないという自覚があるので、それを補うためにどうしたら良いのだろうと考えた末の生活の知恵と言っても良いかもしれません。

どうせ考えるなら、こういう「どうやるのか」という戦略を立てるのも良いかもしれません。
ただし、スピード重視なら立ち止まって考えたら本末転倒ですけどね。

そしてこれも足りない

果たして自分は追い詰められた状態でどうするのか?

まぁ、何によって、どのように追い詰められるかにもよるとは思いますが、何かをやっていれば、遅かれ早かれそんな状況「逆境」に遭遇したりします。

そういう状況で力が発揮できれば理想的で、それこそが自らの価値となるわけです。
達成感とかやり甲斐って、そういう所から来るものです。

難なくできてしまうことの方が良いんじゃないの?と思うかもしれませんが、難なくできるということは、それはすでに経験済みで、最初からできると分かっていることだったりして、自らの成長には繋がらないので、達成感とかやり甲斐を感じるほどのことではないでしょう。
スポーツなんかをやっている人なら常識的に分かっていることです。

そんなのは自分以外にもできる人はいっぱいいるでしょうし、やっても面白くもなかったりするし、そのうち飽きます。

その「逆境」を乗り越えるための準備としての経験が、社会に出る前にできていると良いですよね。様々なレベルで何度も。
そうしたら、仕事はより楽しめるはずです。

どんなに希望の会社に入っても、希望の職についても、大なり小なり逆境のようなものはあるわけで、そういうのに遭遇するたびに「これは自分には向いていない」なんて思って転職していたらキリがありません。

好きなことをやってみる、好きなことができそうな環境に身を置いてみる、それがすなわちチャンスの始まりなわけです。
だって、好きなことなら逃げたくないから、困難を乗り越える動機になるでしょう。

そんな環境で、追い詰められた状況を経験している人は強いです。

実は、「追い詰められた状況での経験は大事」というのは、私のお師匠様からの受け売りです。
私も経験上、もっともだと思います。

戦中戦後に頑張っていた先人達の強さというのは、絶体絶命の究極にシリアスな状況で、腹を決めてやるしかないという経験をしているところにあるのだろうな、と思うのです。
そんなのはとても真似できませんが、重要性は理解できます。

でも、好き好んで絶体絶命の状況に突っ込んでいく人は少ないでしょうし、むしろそういう状況にならないようにするために勉強してたりするわけですよね。
けど、チャレンジを続けていたら、遅かれ早かれそんな状況になったりするのですけどね。
で、その時君はどうしたいの?ということです。

たぶんこれが足りない

「こうしたい」と思って、やってみる経験、これは絶対に重要という話です。
特に若いうちにやっておかないと。

外部からの「こうしてほしい」に従う経験は多いのだろうけど、当然ながらそれが続けば「こうしたい」を発動する必要は無くなります。

学校に行って、塾に行って、勉強して、ゲームやって、と色々やっているようだけど、多様性や独自性が無いなら、特に創造性が無いなら、それは「やらされている」ようなもので、「こうしたい」は最小限になりますよね。

その結果、夢が無いなんてことになるのは当然でしょうし、そういった決められていることをやるだけなら、そもそも主体性なんて必要無いわけです。

学校に行っているうちは、決められたことだけをキッチリやっていれば良い評価を得られるでしょう。そして、その後の可能性が大きく開けるようなことが言われます。
でも、そのいわゆる「可能性が開けた」状態で「こうしたい」と思えなければ、それまでの努力はどうなってしまうのでしょう。そうやって手に入れた可能性を十分に活かせるのでしょうか?

学生のうちは「こうしてほしい」に従順に従っていれば済みますし、それに忠実に応えていれば高い評価を得られると思います。
その「こうしてほしい」にはあらかじめ正解があって、それを導き出せれば良いのです。
もちろん、それも能力の一つではあるでしょう。

でも、社会に出てからの「こうしてほしい」には、模範解答が無かったりします。
自らの「こうしたい」をやってみた経験が十分でなければ、そういう場合の「こうしてほしい」を実現するのは大変難しくなると思います。

これは仕事をする上では大問題かもしれませんが、恐らく本人にとっては大した問題にはならないと思います。
「そんなもんだ」と思うでしょうから。

でも、業務としての「こうしてほしい」の本意は伝わらず、言われた当人は「そんなの、どうするか言ってくれないとできない」という噛み合わない状態が延々と続く…といったことになるでしょう。

そうなっちゃった責任は本人には無いのかもしれませんが、誰も責任は取ってくれません。
でも、その状態であり続ける責任は本人にあります。

そうなっちゃってから何とかしようとして、何とかなることもあるでしょうけど、恐らくそれはとても難しいことになります。
だってそれは習慣に組み込まれた価値観の問題で、無意識下での反応になっているから。

これ、仕事を面白くすることができるか否かの大事な要因の一つだと思います。
それは、仕事で成果を出せるか否か、それを継続できるか否か、ということにも直結しますよね。