最近は、そんなことを考えています。
考えるについて考えてるんですよ。
学生に問題を出して
「よーく考えなさい」
と言いますが、どうも違うぞ、と。
それが全てじゃ無いぞ、と。
まぁ、そりゃそうなんですけどね。
問題を解くのも「考える」なのでしょうけどね。
でもそれは「すでにある解き方を適用する作業」だと思うのですよ。
言ってみれば、手持ちの工具でネジを締めるようなもの
誰かが作ったパズルを解くようなもの
そいういうのが苦手だから負け惜しみを言ってるのかもしれませんけどね。
でも、そこに必要なのは、過去の知識やパターン認識でしょう。
だったら、あながち外れてはいないでしょう。
じゃ、学者さんは単に沢山ものごとを覚えているだけなの?
というと、ちょっと違う。
学者さんは、そういった知識を元に新しい何かを生み出すわけで、想像力が働いているのです。
それができないと学者さんにはなれません。そしてそれを言語化する。
想像力は、今無いものを思い付く力です。
対して、エンジニアも想像力ベースで考えますが、ゴールが違います。
形にするのがエンジニアのゴール。
実は私、肩書きは学者なのですけど、マインドはエンジニアなんですよね。
なので、価値の置き所がちょっと違う。
学者さんは、「まだ誰も知らないこと」を見つける人です。
対してエンジニアは、「まだ誰も実現していないこと」を形にする人です。
学者は「なぜ?」を追求し、エンジニアは「どうやって?」に取り組みます。
もちろん、学者にとっても「どうやって?」は大事だし、エンジニアにとっても「なぜ?」は大事ですけどね。
でも、重心の置き方が違うってことです。
さてさて、二者の違いはこのくらいにして。
重要なのは、与えられた問いについて考えることではなく、自ら問いを立てられるか否かってところだよな、と思います。
与えられた問いについて答えられなければ、留年したりしちゃいますので、そっちも大事なのですけどね。
「自ら問いを立てる」って、別に自分で問題を作れってことではなく、色々想像して「で、どうする?」と考えることです。
「もし、こんなふうになったら?」とか
「他の立場だったら、どう感じるだろう?」とか
そんな想像をして
「で、どうする?」
と。
その先には、あらかじめ決められた正解はありません。
正解が無いと落ち着かない?
正解が無いから面白い?
そしてその「どうする?」の先が、明文化や言語化なら、キミは学者さんになったら良いんじゃないかな。
物体とは限らないけど「もの」であれば、キミはエンジニアになったら良いでしょう。
キミはどっちの考え方が好き?というのが決め手でしょう。