いわゆるフレキシビリティというヤツ

誰がやっても
何をやっても同じではないし

何かををやってみて
良いか悪いか
二元論で捉えがちだけれど
結果、起きたことは
良いところもあれば悪いところもある

その時の自分に合ったものや
その時の自分が欲していたものを得て
何かしらプラス側に振れているように見えても
必ず何かマイナス側のことも起きていたりする

どうしようもないひどい経験だって
見方を変えたり価値観が変わったりすると
決してマイナスではなく
むしろ良い教訓になっていたりもする

人が経験することに
無駄なものや無意味なものは無いのでしょうけど

経験の数を増やせば
失敗の数も増えてしまうのは当然

とはいえ、結果がポジティブな方が
次の行動に繋げやすいのは確かなわけで

そのためには
多面性を持つものごとに対して
ポジティブなものの見方ができないと
継続は難しくなります。

加えて言うなら
その時々に
「何のために」
というゴールを持って行動するか否かは
経験の価値を大きく左右するわけで

それらがあれば
どのような結果が出ようと無駄にはならない
そんな気がします。

自身の価値判断のものさしを作ろうとせず
気付かないままに他人からの借り物を使っていると
多面的なものの見方は難しいでしょう。

我々は日々試されていますよ。

自分のせいにしてしまえ 3 完結編…?

ここしばらく感じてきた違和感があります。
何か世の中変な方向に行っている気がする。
自分の周りだけ?
いやいや、そんなことはないな。

一体何が良くないのか?

自分のことばかり考えているから
うまくいかないのではないか

加えて
経済的な低迷とか
何かしらの危機が迫ってるとか
そんな状況になればなるほど
人の心は守りに入って

自分の外にあるものに対して

恐れて怒って
文句ばかり言って
そこに力を注いで

小さな自分のためのことばかり考えてやるようになって
悪い感情のループが回りはじめる。

基本にあるのは
「自分のせいじゃないのに」
という感情。

これが回り始めると
ネガティブな感情にブーストが掛かって
止まらなくなります。

もちろん
自分のせいじゃない
と思っているので
自分が何とかしなけりゃいけない
なんて思えない。

これ
「自分にはできない」
ってのとイコールです。

自分のせいじゃないから
やる必要は無い
だからやらない
なので、できないまま

ほら、これ
「できない」
ってことですね。

徳がなくて
得することばかり考えていると
そんなことになるのだろうなぁ

と、自分と向き合いながら考えていました。

ならば解決策は簡単で

自分のせいだ
と思えばいいのです。
悲観的なヤツじゃダメですよ。

「自分にも何かできるはずだ」
という前向きなニュアンスがいいかな。


恐れや怒りのループが回ってきたら
笑っちゃえばいいんですよ。

そこで自分がループを断ち切ってしまう。
そしたらお終いです。

自分が損をしたくないとか
自分を守りたくて
「自分のせいじゃないのに」
なんて思っていると
そういうことをする勇気は出ません。

こういうのも
徳を積む
ということなのかな。

あぁ、徳を積むって
勇気が要るんですね。

でも、勇気で解決しちゃう
ということでもありますね。

やりまくれ

昨日の記事では
考える
決める
やる

のサイクルを回すために
「決める」というところにフォーカスしてお話ししました。

今回は
「決める」

「やる」
のお話しです。

大学に来るような若者は
考えるのが好きなのでしょうか。

「考える」
の部分が長くなりがちです。

まあ、大学に来るくらいですから
考えるのが好きな学生も多いのだと思いますが

考え方が分からない
というケースも多いと思っています。

というのも
目的が明確化できなかったりするからです。

そもそも、目的を持って何かをする
という経験が少なすぎるのではないかな。

ゴールを決めて
そこから必要な要素に落とし込んでいく
という経験がほとんど無いのでしょう。

目の前に単発の課題を出されて
それを解いていく
そんな経験ばかりなのではないかな。

なので、考えるときは
最小の要素からスタートしたりしがちですが…

そもそも、「何のため?」というのが
考えられていないので
落としどころが無いのです。

これ、何度も似たような記事を書いていますが
ものをつくるとき
そのために考えるときに
最小単位からなんてスタートしちゃイカンのですよ。

製品を作るために
構成する最小単位から
例えば
まずはボルトから
なんて設計しません。

そんなことをしてしまったら
製品の最終形態なんて
完成するまで分かりませんよね。

「やってみたら、こんなんなっちゃいました」

そんなのはありえません。
逆です。
最終的な「ありたい姿」から
そのために必要な小さなことに落とし込んでいきます。

けど、それを知らなければ仕方ないとも思います。

「基本」とか「基礎」とかいって
小さいことからやる経験しかしていなければ
そりゃぁ仕方ないでしょう。

もちろん、基本・基礎は大事ですよ。
でも、その使い方は知らないままではないかな。

全体を成立させるために
基本・基礎を使うのです。
言ってみればそれらは
製品を構成する最小単位のようなもので
何もそれを使わなきゃいけないわけでもない。

全体を形づくるために必要なら使えばいいし
他のやり方に変えてもいいし
不要なら使わなくてもいいのです。
自由です。
自分で決めていいのです。

長くなってしまいましたが
そもそも考え方が逆なので
どうしたらいいか分からない
なんてことがよく起きます。

なので「決める」というプロセスに行けない。
そりゃそうでしょう。

失敗を恐れるから
なんてのもあるかもしれませんがね。

ものごとの上流、全体から判断して
そのために必要なことを決めてしまいましょう。

さて、その後はやるだけです。

ただ、スピードを重視しましょう。
時間を軽視すると
経験の数が最低限になってしまうのはもちろん
ヘタすると、やっている事自体に意味が無くなって
そもそもなんでやってるのか?
なんてことになってしまったり
やる事自体に飽きてしまったりすることもありますので。

もちろんそれは
考える
決める
やる

の全てのプロセスにおいても同様です。

個人的には
やりもしないことをいつまでも考えていても
分からないものは分からなかったりするので
「やる」
を最優先に
ものごとを組み立てていくことをお勧めします。

どうしたらいいかよく分からなかったら
まず何かやってみる
というのもアリです。

その結果から分かったことをベースにして考える
そういうやり方は決して間違ってはいません。

授業の「実験」なんてのは
本来そういうプロセスの一部のはずなのですが
どうも実践には役立てられる気がしないでしょう?
現実と教育が乖離しちゃってるのでしょうね。