先生だけが先生ではない

学生達は学校で学んでいますが
それだけが学ぶ方法か
というと、決してそんなことはありません。

我々の身の回りにある製品

これをどうやって作るのか
どうしてこんな色や形をしているのか
なぜこういう材料を使っているのか
そんなことを考えるだけでも
学べることは沢山あります。

まだまだあります

駅のポスターや
電車の中吊り広告

なんでこういう表現をしているのか
なんでこういう色使いをしているのか
見ている我々にはどのようなアクションを要求しているのか

そんなことを考えるだけでも
本当に色々学べます。

本でも文具でも家具でも建物でも
何でも良いのです。

物体に限らなければ
お店のサービスなどからも
学べることは多いです。

見て分からなければ
それをトリガーとしてネットで調べれば
大抵の情報は手に入ります。

人がものをつくる上では
かなりの知恵と努力を要します。
なにも考えずに何となくできちゃった製品やサービスなんて
実はほとんどありません。

加えて、我が国には質の高い製品が溢れています。
それが当たり前なので気にならないのでしょうけど。

そういう様々なものが
日頃から視野に入っているはずなのですが
気にしなければ何も頭には入ってきません。

見えているのに見えていない
そういうことです。
もったいないですね。

普段の自分が興味を持たないものであっても
ちょっと考えるだけで
実に様々な知識が手に入ります。

そう、エンジニアリングを学ぶのであれば
先生はそこら中にいるのです。
人としての姿は見えませんが。

そして、知ったことを使ってみましょう。
何かをやってみましょう。

知っているだけでは何も起きませんから。

「いつか役に立つかもしれない」って?

「いつか」なんて来ない
そう思っていていた方がいいですね。

夢工房の「恩送り」

やることなすことなんでもかんでも全力で
というのはさすがに無理ですが

自分が「やるべきことだ」
と思ったことに対しては全力でやって欲しいものです。

では、どこまでやるのか?

例えば
夢工房でレーシングカーを作っているような連中はどうすべきなのか

こういう活動をしている時に
真っ先に問題になってくるのは
資金面ではないでしょうか。
クルマを作ってレースをするのですから
お金がかかります。

夢工房の活動は
大学からの支援や研究室の研究費などを活用していますが
それだけでは海外遠征は不可能です。
ひょっとしたら
マシンを作ることすらままならないかもしれません。

現状の手持ちのリソースだけでは
海外大会に出たいという
彼らの夢は叶わないので
「じゃ、できる範囲で…」
ということにすると
この活動は、途端にチャレンジではなくなってきます。

できる範囲でやることを
チャレンジとは言いません。

未来をつくっていく人間は
チャレンジャーでなければいけません。

チャレンジしなければ
現状維持しているつもりでも
徐々に降下していきます。

そこで彼らはスポンサーを探して
協力をお願いしています。

自分の財布で何とかできないのに無責任?

そういう考え方もあるかもしれませんが
スポンサーから支援して頂くということは
相応の責任が伴うので
簡単に諦められないということです。

「やる」
と約束して支援してもらっているので
やらなければ約束を破ることになります。
だから、何が何でもやらなければならない。
(という状況で、このコロナ禍は正直キツいです)

これは、授業で「単位を落とすからやらなければ」
なんていう状況とは比べようがありません。
パーソナルな問題ではないので
責任の大きさも次元も違いすぎます。

授業やら何やらというのは
パーソナルな問題なので、最低限でもいいのです。
文句を言うのは親と先生くらいです。
(注:かといって、卒業できないなどは論外です。
早く世のお役に立つ必要があるのですから)

でも、こういったやりかたで活動をしていると
最低限では誰も力を貸してくれません。
最大限やるところに価値があって
そこに責任が伴うのですから
好きなことを全力でやることになるわけです。

では、スポンサーをはじめとした
支援者には何をお返しできるのか。

良い成績を上げて喜んでもらえたら最高です。
しかし、直接的にお返しできるものは何も無いかもしれません。

しかし、支援してもらった彼らの持つ責任が消えるわけではありません。
彼らは卒業後、その恩に報いるべく
良い仕事をして世の中を回していく使命を持っているのです。

というか、こんなことを毎日全力でやっていれば
そりゃぁ仕事ができるようにもなってしまいます。

受けた恩は返すのではなく
将来活躍することによって
世のために、次世代のためにと送っていく。
こういうのを「恩送り」というのですね。

学生特有…と言っても良いことで変えると良いことがあること

学生の弱点を考えてみました。
こういうのが直るといいよなぁ
と思って。

もちろん、自分が学生の時もこういうのが弱くて
ある時に気付いて何とかしようとしたことでもあります。

先のことを考えたり決めたりする力が弱い
プライオリティ(優先度)を決めて実行していく力が弱い

これ、授業を真面目に受けるような生活をしていれば当然だと思います。
まぁ、若いってことは、人生経験が浅いってことだから仕方ないのですけどね。
で、こうなります

自分に降りかかった事象に対して受動的に行動するので
せいぜい「~だろう」という考え方(自分に都合の良い期待)なる程度で
「~かもしれない」という予知予測ができない

「~だろう」ではなく
「~かもしれない」と考えろ!
というのは、危険回避の基本中の基本です。
「予知予測だ!」と。
職場でよく言われました。

これ、初めて聞いた時は新鮮でしたね。
感心しちゃいました。

この考え方に対しては、色々な例を出せますが
色々ありすぎちゃうので、分かりやすい例をいくつか挙げましょう。

あるシステムでも、特定の部品でも良いのですが
完成検査なり、定常の点検なりをしていて
「大丈夫だろう
と思って見ていると、全て大丈夫にしか見えません。
ダメなところなんて見えないのです。

なので、「大丈夫だろう」と思って点検すると
事故が起きることが確定します。
「異常があるかもしれない」という視点で点検しないと
点検にならないのです。

こういうのはどうでしょう。

レーシングマシンでも量産車でも産業機械でも良いのですが
ある部品の寿命について考えているとしましょう。

自分はその部品の設計者では無いので
耐久性については知らない
というのが前提です。

で、今現在、目の前にある部品は壊れていない。
ずっと使ってきたけど、大丈夫。

この部品の寿命をどう考えるか。

「今までもってきたのだから、この後も大丈夫だろう
と考えるか

「今までは壊れなかったけど、寿命を使い果たしているかもしれない。
なので、このすぐ後に壊れるかもしれない
と考えるか

どう思いますか?

こういうのもあります。

新品のスペアパーツが買ってある。
レースの決勝前に念のため交換しておくか?
決勝前ですよ。

「新品なので調子良いだろう

「新品だけど不良品かもしれない

そんなことはまず無いだろうって?

確かに確率は低いですが
工業製品に100%良品は無いと思っていいです。

それを甘く見てレースを落とす事例はあります。
絶対に勝ちたい人は未使用の新品なんて決勝前に投入しません。

こういうのものの見方って
エンジニア特有のものなのかな?