人生の質は、あなたが自身に問いかける質問の質で決まる

「人生の質は、あなたが自身に問いかける質問の質で決まる」
と言いますね。
聞いたことありませんか?

最初に言い始めたのは
アンソニー・ロビンズという
アメリカの作家さんのようです。

この言葉の解釈とか真意については
ご本人の著書などをお読みになるのが良いかと。
私、読んでませんが。

「人生の質は、あなたが自身に問いかける質問の質で決まる」
というのは
ChatGPTとのお付き合いをする際に
まさにそういうことになるわけです。

特に
「問い掛ける質問の質で決まる」
この部分です。

どういったことを
どのように聞くかによって
ヤツの挙動が変わる
というか
アウトプットの質が決まるからです。

で、今回ネタにしたかったのは
残念ながらChatGPTではなく

「あなたが自身に問いかける」

の部分なのです。

自分の思い、考え、言動
それらに加え、過去から現在、そして未来
そんな諸々が記憶や想像として
我々の頭の中にあるのですが

そういった有用なリソースに対して
「自身に問い掛ける」
ということをしているだろうか?
ということです。

未来の想像に対しては
それを実現するためには
どうしたら良いのだろう?

それに対して現状はどうだろうか?

と、そういう問いかけを自身にしていますか?
というお話しです。

ただし、過去のリソースにばかり着目して
特にネガティブな経験に着目したりすると
そこに問い掛け続けても何も起きないどころか
病気になっちゃいますので

それを元に未来に向けて
「で、どうする?」
とすることが大事だったりします。

それができていれば
結構な確率で思った通りになる
そう思ってます。

その辺はまさに
「問いかける質問の質」
ではないでしょうか。

仮に現状、自身への問いかけの質が低かったとしても
実行結果のフィードバックをしながら継続していけば
きっと質は向上するでしょう。
なので心配無用。

むしろ、うまく行こうが行くまいが
トライしてみた結果さえあれば
フィードバックの材料になるのだから
行動によって問いかけの質の向上ができる
という言い方もできるでしょうね。

こういうのを継続して習慣化する
それが大事なのだろうなぁ
なんて思っています。

そんなの当たり前だろうって?
そうかもしれませんね。
でも、念のために記事にしてみました。


やればできる!

今日は素晴らしいことがありました。
ここ数年の懸案だった、夢工房のメールサーバーの問題を解決したのです。
多分こんなの興味の無い方がほとんどで、全く面白くないと思いますが。

こんなことを記事にするのもどうかと思ったのですが、10年くらい引きずっていた懸案が解決したのだから、嬉しいですよ。

あまり詳しいことを書いても仕方ないので、ざっとご説明。

夢工房にあるPCにメールサーバーのソフトがインストールされているのですが、今までは自分が理想とする高いセキュリティで利便性で高い運用ができていなかったのです。
思った通りの設定でうまく動作しなかったので、妥協した設定で運用していました。10年くらい。

ネットで検索してもなかなか事例が出てこなくて、ずーっとジタバタしたり悶々としたり、そんな感じだったのですが、やっと解決法を見つけたのです。

ちょっとだけマニアックな内容で説明すると
特定の通信ポートを設定すると、サーバーのソフトが起動しなかったのですが、レジストリをいじってソフトの起動オプションを指定したらうまくいきました。
わけ分かんないでしょう?

私はITエンジニアでも何でも無いので、こういうのはあまり詳しくなくて半ば諦めかけていたのですが、やっと何とかなりました。

で、「やればできる!」よね。
ということです。
諦めなくて良かった!

播いた種の芽が出る

人は意識せずとも無意識な行動を取るわけなので
無意識だからといっても
何もしていないわけではない。

なので、無意識だからといって
何も起きないわけではない。

無意識でも種を播いていて
その種の芽が出て成長すると
いずれは刈り取らなければならない。

望んでもいないのに
困難が降りかかってきて
その対応に忙殺される

というような状態は
そういうことが原因であることが多いのだけど
「そんなもんだ」
と思っていれば
その仕組みと状況は放置されるわけで
同じことを延々と繰り返すことになる。

でも、意識的に種を播けば
いつかそれ相応の芽を出す。
相応の結果が出る。

未来の希望のために
ビジョンを描いて
そのためのことをやっておけば
相応のことが起きるのは当然。

昔々、子供の頃に
そんなようなことを言われた気がする。

けれど、その時は
「…だから勉強しなさい」
のような話で

勉強が苦手で嫌いな自分は
全く腹に落ちなかった。

「たら」「れば」は無いけれど
その時に「勉強」ではなく
自分の好きなことだったら
一体何が起きたのだろう?

いやいや
好きなことは言われなくてもやっていたな。

なので、今頃になって言語化できたということか。

こういう話は
「忙しくて、そんな事をやっている暇は無い」
ということになることも多いのだけど
結局は、やりたくないのですよね。
今のままにしたいのだと思います。

気持ちは分かるけど
そんな風にしてしまうから
相応のことが起きるのだけど

未来に起きることよりも
今、手元にあることがが大事なら
そうならざるを得ないでしょう。

今、この瞬間にベストを尽くす
というのは大事なところなので
判断が難しいかもしれませんが

「何のために」が無ければ
そもそも「今、この瞬間」は無意味です。