暗黙知と形式知

何度かネタにしてきた内容ではありますが、AIがかなり実用的になってきたので、改めて思ったことを書いておきましょう。

「あうんの呼吸」なんて言葉がありますね。「暗黙の了解」なんてのもあります。
これらは「言わなくても分かる」ってことです。
加えて、「職人の勘」なんてのもあって、「考えなくても分かる」ってことです。

日本人は、多くが似たような価値観や考え方をしていたり、各人の距離感が近いこともあって、そういうものが醸成されやすいのでしょうね。

これに対して、明文化されていないものに対する嫌悪というか、そういったものを明確化しないと…のような論調があった気がします。
というか、今でもそうかもしれませんが。

確かにそうした方が良いことはあります。
伝えやすいし、情報として残しやすいから。

そうやって伝えられるものを形式知と言います。

でも、なんでもかんでも全て明文化すれば良いかというと、決してそんなことはないぞ、と思うのです。
そもそも、なんでもかんでも明文化は無理です。
文章とか、何かしらのメディアで伝えられることには限界があります。

やるべきことをキッチリ明確化してマニュアルにして、それに従えば、多くはマニュアル以外のことはやらなくなるでしょう。

言われたことをキッチリやれば100点を取れる学校教育なども分かりやすい例で、言われたことや、明確化されたやるべきこと以外はやらない傾向になります。

「言わなくても分かる」「考えなくても分かる」ってのは、その領域に到達するまでに経験が必要で、そういうのは面倒なものなのです。
経験に基づくもので、直感が必要なことなんてのは、大抵はそういうものです。

そういった「やらないとわからないこと」を暗黙知と言います。

でも、往々にして面倒なことって価値があったりするもので、そういうのを「無駄」ということにして排除していくと、味気ないものになっていったりしないでしょうか。
メディアに残して大量配布できる情報であれば、価値は低下するでしょう。

形式知で何とかなるものはAIが得意な領域ですよね。
なので、そういったものはAIを駆使してバリバリやれば良いでしょう。

対して暗黙知が効いてくる領域、これをどうしていくか。
これは今後、大きな課題になってくると思います。
というか、すでにそうなっていますかね。

夢工房でやっていることって暗黙知ベースのことばかり。
形式知ベースの世界にどっぷり浸かってきた学生には、なかなか手強い世界かもしれませんが、そこに価値があるのは明確なのですよ。

ポジティブとネガティブ

性格だから消極的なのは仕方ない
とか
経験とか実績が無いから消極的なのは仕方ない
というように
性格とか経験とか、そういったところに関連付けて
「仕方ない」ということにしたくなったりしませんか?
気持ちは分かります。

でもそんな時に望んでいるものは何でしょう?
どうしたいのでしょうか?

きっと「うまくいくといいな」
と思っているのではないでしょうか?
まぁ、大抵はそうですよね。

じゃぁ、そのためにはどうしたら良いでしょう?

まぁ、色々あるでしょうけど
心構えとしてシンプルなのは…

積極的であること

その結果としては色々起きるでしょうけど
これは絶対です。

バットは振らなきゃ当たりません。

積極的な気持ちでバットを振り続けていれば
いつか必ず当たります。

フォアボールやデッドボールが良いのだ
というなら話は別ですが。

ちなみに英語では
積極的なことをポジティブと言います
消極的なことはネガティブです。

思考により結果は決まるわけで
「うまくいくといいな」
と思うなら
そのための心構えはシンプルなのです。

え?ビギナーなのに空振りしたくない?
それは非現実的ですね。

価値の本質 その3

人の価値とか、ものの価値については色々考えます。

だって
「ものをつくる人」をつくる
それが仕事だから。

でも、人の心は外部から手を入れて、ものを作るようにこねくり回せないので
偉そうに「つくる」とか言ったところで
直接的にどうこうできるわけではないのが難しいところですけどね。

大学で学ぶのは、社会に出た後に仕事をするため。

とはいえ
仕事って何だ?
ってのが大事なところで
どうせなら良い仕事ができるようになって欲しいですね。

となると、「良い仕事」って何だ?ということになるのですが

それは、高度な知識や技術やスキルを使って
高い価値を持った成果を作る…

と言いたいところですが
実は大事なのは、その成果の働きによって何が起きれば良いのか
というところで

それは
どれだけ相手の心を動かせるか
というところに尽きるのだと思います。

相手の心が、どのくらい
多く、大きく、長く動くか

価値の大きさは、それで決まります。

近年、「ユーザー体験」という言葉を使うようになったのは
まぁそういうことなのでしょうね。

どんなに高度な知識や技術やスキルを使っても
人の心が動かなければ
作り手の自己満足に過ぎません。

立派な手段を使っても
高い価値を生み出せるとは限らない
ってことですね。

学校では、この手段とか、目的とかの関係は明確にしません。
手段を得ることが目的化されているからでしょうね。

ややこしいですか?
そうですね。