今回アメリカで思ったこと2

まずコストの話です。
アメリカの物価が上がっているのか
日本円が弱くなっているのか
恐らくその両方なのでしょうけど
何をするにも高いなぁと感じました。

ただこれは、数字としての価格が高い思ったという話しで
そこから得られた経験としては
決して無駄を感じていたわけではありません。

円と米ドルを単純に換算して
現地で色々経験するというのは
為替レートによって我々の生活がどうなるのか
ということを肌感覚として知る良い機会にはなったと思います。
日本国内にいて価格の変動を感じていても
それが国際的な関係によって影響を受けている
という実感はなかなか得られませんからね。
まぁつまり
「日本人、頑張らんといかんな」
と思うきっかけにはなったということです。

コミュニケーションや他人との関係ですが
これはやはり国が異なれば大きく変わる
というところです。

店舗内でのコミュニケーションなどは分かりやすいところです。
日本ではお店の人とコミュニケーションするどころか
挨拶することすらありませんよね。
むかしむかしはそんなことはありませんでしたが。

これは国際的に見たら異常なことです。
客と店員
という関係に限らず
人と人とが接する際に
挨拶もしないで無言でやるべき事をやる
というようなことをできるのは
ちょっとおかしいですね。

店舗内に限らず
宿でも街中でもそうですが
日本人のコミュニケーション能力は
国際的に見たら相当低いレベルになっちゃってる気がします。

人との距離感覚も興味深いところです。
店舗の中などが分かりやすいのですが
店内をウロウロしていると
他のお客さんとすれ違うとか
進路を遮ってしまう
なんてシーンがあるものです。

日本人の感覚では
欧米の感覚では「近すぎる」と思う距離まで接近しても
違和感を感じません。
これはアジア人の感覚なのかもしれませんが。

なので、店舗内で「おっと!」が多くなります。
もっとも本人は気付いてなかったりしますが。
この距離感覚は日本とは大違いです。
でもひょっとすると、アメリカとかオーストラリアとか
大きな国に住んでいる人固有のことなのかな?
イギリスはどうだっただろうか?

皆さんご存じの通り
アメリカは日本より先行してコロナ禍から立ち上がっている最中です。

日本にいてネットで得られる情報では
アメリカ人はコロナなんて全く気にしていなくて
なにも対応していない
なんて感じますがさにあらず。

どうやら結構、自粛や縮小していたようです。
または現状でもしています。

リノのエアショーのようなお祭りでは
顕著に感じられました。
見るからに規模が縮小されていましたし
実際に来ているお客さんも相応に減っていました。

また、空港などでは
定常に戻る過程での多少の混乱は見られました。

航空会社のカウンター業務などは特に問題を感じませんでしたが
空港にあるレンタカーのオフィスなどは
徐々に増えつつある旅行者に対して
明らかに仕事がうまく回っていないシーンが見られました。
都市部は相応に対応をしているのですが
地方空港などはうまく人が捌けていない印象を持ちました。

アメリカの現状の経済状態などは
あまり詳細まで分かりませんでしたが
今回リノで感じたのは
メキシコの人が多いということです。

もちろん以前から多かったのですが
今回リノで泊まったカジノでは
以前では見られなかったほど多くのメキシコからのお客さんで盛り上がっていた印象があります。
メキシコは景気が良いのでしょうか?
そういえば、ヒスパニックの店員さんも増えている気がしましたね。
いやいや、人種の多様化は全体的に進んでいた気がしますよ。
コロナ禍からの立ち上がりの過程とは思えない状態です。
興味深いですね。

と、今回はこの辺で。
思い付いたらまた書きます。

何かを一所懸命やるには何が必要?

人が何かを一所懸命やるには何が必要でしょうか

やらないと命に関わる状況なら
そりゃぁやるかもしれません。

平穏無事で食うに困らない状態では
一所懸命やる理由も無かったりして
何かに一所懸命取り組むためには
何かしら理由が必要なのかも知れません。

外発的な動機に取り囲まれて
日頃からやらされる経験ばかりだと
そこから解放されたくなるのは仕方ないことで
やらされればやらされるほどほどやりたくなくなる。

でも、そうではなくて
やらずにはいられなくなる楽しさとか
人の役に立てたときの満足感とか
そんなのが動機だといいですね。

あと、動機が何であれ
それを楽しめるようになれればいいでしょう。

そもそも「天職」なんてのは
最初からあるものではなくて
自分でそのようにしていく
ということでいいと思います。
むしろその方がいい気もします。

だって、初めてやることで
最初からうまくいくことなんて
そうそう無いでしょうし
そんなものを探し始めたら
人生いくら時間があっても足りないでしょう。
むしろ、うまくいかなかったことを何とかしていく
というところに価値があるのでしょうから。

やらされるのはなく
自分からやってみたい
自分の意思でチャレンジしてみたい
そんな思いが発動するためには何が必要なのでしょうか。

赤ん坊のころは色んなものに手を伸ばして
親に「ダメダメダメダメ」とやられますよね。
物心が付く前には自然とそういう行動をするものです。
それってまさにチャレンジだと思うのですが
でも、いつかやらなくなる。
これは一体何なのでしょう。

これは教育機関のみならず
あらゆる組織における課題になってくるのではないでしょうか。

もうすでになってる?
うん、そうかもしれません。

さぁ、どうしましょうか。

想像ができない そりゃそうかも でどうする?

最近は夢が無い若者が増えている
なんて話を何回か記事にしたと思います。

夢工房の活動をやっているような学生達に関しては
夢が無いというのは逆に珍しかったりするのですが
それとは違って
いや、違わないかな

未来が見えないというか
ちょっとした先のことが想像(想像)できない
という者は増えている気がします。

例えば
ある部品を設計しているのだけど
その部品をどのように作るか
どのように組み立てるか
どのように使うか
など

未来に起きることが想像できないというか
想像する他のが苦手だったり
そんなケースが増えている気がします。
もちろん全員ではないですが
確実に増えている気がします。

夢が無いというのは寂しいことですが
ちょっとした先のことが想像できないというのは
開発などを含め
仕事をする上では
ちょっとクリティカルかもしれません。

何でそうなるかという理由は分かっています。

何をするべきかとか
そのために何が必要かとか
それをやるとどうなっちゃう可能性があるかとか
その辺を考えて行動する経験が少なかったからでしょう。

言うまでもなく
親をはじめ、周囲がお膳立てしてくれたから
自分の代わりに考えて決めてくれたから
ということでしょうね。

もちろん
そういう環境で育てば
自発的に考えたり決めたりする能力が身に付いているはずはありません。

言われたことをやる
いわゆる「良い子」なら仕方ない気もします。
でも、仕方ないじゃ済まない。

うーむ、こりゃ困ったことだ。
まさに困難です。

でも恐らく
いや確実に
この困難に直面して解決するのが
学校でも社会でも課題となるののは間違いない気がします。

さぁ、でっかい宿題ができましたよ。