アウトプットを磨くということ

この場合のアウトプットは
言ったり
やったり
その他諸々全てです。

学校教育では
アウトプットの方法は
ペーパーテストがほとんどで
定型的な方法で善し悪しを測ります。

頭の中に入れること
に重きを置いていて
それを頭の外に出す
というところに重きを置いていません。

言われたことができる
決められたことができる

というのも大事かとは思います。

しかしそれは
社会に出たら最低限のことではないですか?

もちろん、最低限のことが凄くできても良いのでしょうけど。

でも
言われてもいないことができる
誰も決められないことができる

そういう人も必要です。
そしてそれは超重要。

なぜって
それが価値の本質だから。

一体誰がそれをやるのでしょう?

言われたことや決められたことをやりまくって
その先にいく人もいるでしょう。

ですが、心の構造が
受け止めて
インプットする
という風になっていたら
そこから変えるのは凄まじく難しいはずです。

なぜ難しいか?

それは、「思い」を
言葉や、その他の手段で
アウトプットする経験が少ないから。

恐らく今の教育機関では
そういった経験をするのは
極めて難しいのではないでしょうか。

そもそも学校での教育自体が
決められたことをやっている訳で

そこで学ぶ学生達も
決められたことを学んでいるだけです。

システム的に
伝えられたことを処理しているだけに過ぎない。

そこで自分の「思い」をアウトプットする必要は無いし
仮に、そうしたところで評価はされません。

むしろ、そんなところで目立ってしまったら
面倒や厄介のタネになる可能性がある。

そういうリスクの一端として
捉えられているのではないでしょうか。

もっとも、そんなことを意識しているわけではなく
もはや無意識に反応しているだけでしょう。

「思い」に価値の根源があることは
恐らく多くの人が感じていることだとは思います。

でも、そこは
正解とか不正解とかいう世界ではないので
定型的な学びができない。

批判されたり否定されたりする可能性がある上に
やりながら試行錯誤して磨いていく必要がある。

でも、だからこそ
各人それぞれの独自な価値
が生み出されるわけですが。

というわけで
そんな大変面倒で非効率的な世界でのリスクを取らず
言われたことや、あらかじめ決められたことにおいて
マイナスになることを避けることが得策
という姿勢になっているのではないかな。

それ「ゼロ」なんですけどね。

アウトプットを磨き
「思い」を価値あるものにしていく
というのは
生きる術を手に入れるということでもあります。

それを楽しみながら
トコトンやっていく

夢工房はそういうところです。

お寺での気付き

とはいえ、悟りを開いたわけではありませんよ。

今日は亡父の百か日忌という法要を済ませました。
この日を境に嘆き悲しむのはお終い
というお寺のイベントです。

お寺でお経を上げてもらって
当家の場合は、都合により四十九日に
お墓の完成が間に合わなかったので
今日、お墓にお骨を納めるいわゆる納骨となり
お墓の機能がスタートしました。

私は仏教徒であるという自覚は全く無くて
むしろ神社が大好きなのですが
お寺に行ってもあまり違和感は感じないわけで

ということは
やはりある程度仏教に馴染む素地があるってことで
我々日本人の生活環境には仏教が根付いているのだよなぁ
なんてことを改めて実感しました。

こういった全く仕事とは関係ないところから
やはり環境の影響は大きくて大事なのだなぁ
と実感した次第です。

特別なものを普通にする

環境によれば
そんなことも可能になるということです。

彼らの夢は我々の未来

「学生って、こういうもんだから
まぁ、そんなもんだろう」
とか
「学生なんかにできっこない」

みたいな見方はしたくありません。
というか、大嫌い。

そもそも、そういった見方が
彼らのパフォーマンスを下げてしまうから。

だって、期待もされていないのに
大きなゴールを設定したり実現したり
そんなことはできないでしょう。

それに、期待されていなければ
「やらなくていいんだ」
と思うのが関の山。

なので彼らには期待したい。
彼らこそ我々の未来なのだから。

夢を持つ彼らには
「きっとできるからやってみようぜ!」
と応援したい。

仮にそれが、自分自身にできないことでも
そう言いたい。

ここ、意外と難しいところです。

仮に、先生ができないこと
というか
専門領域外だったりして
想像つかないことを
学生達が「やりたい!」と言ったとする。

どういう反応が返ってくるでしょうか?

恐らく色々な理由付けをした上で
「そんなのできるわけないだろう」
というのが多いのではないかな。
「現実的」な意見として。

いやいや、それはアンタの現実であって
夢を見ている彼らの頭の中では
現実化が始まっているかもしれないでしょう。

だったら彼らの夢は
彼らにとっての現実の一端なわけで
どのような「現実」で
夢まで繋いでいくかは彼ら次第。

そして、それができるかどうかを決めるのは本人であって
少なくとも、やったこともない人間ではない。

そもそも現状ではまだ足りないものがあるから学生やってるわけで
その不充分な状態で彼らの可能性を評価すべきでは無い。

自分の知識を受け渡して
やらせること(だけ)が教育だ

と思っているなら
自分の知識領域以外に飛び出そうとする学生に対して
「無理だ」と制限をかける気持ちの構造は理解できる。

でも、それはやっちゃダメ。

最も大事なのは
自分が心から望んで考え、行動することであって
先生に言われたことを忠実に実行することではない。