どこに重心を置くか

学生は色々やることがあって忙しい、大変だなぁ、と思うこともあるでしょう。
まぁ卒業後のため、というか、その後の人生のために色々身に付けておかなきゃね、ってところなので仕方ないのです。

定型的な知識の習得、いわゆるお勉強はもちろん、実践的なスキルや、人生経験としても身に付けておくべき事は山ほどありますね。

そういったもの、どれも大事なのだけど、もっと重要なのは、というか、考えておくべき事は、どこに重心を置くかとか、習得するものの範囲とか組み合わせをどうするかとか、そういった切り口もあるってことです。

当たり前なことだけど、皆が同じように学んで、同じようなことを経験して、同じような仕上がりになったらどうなるのでしょう?

例えが悪いかもしれないけど、スマホだってパソコンだってクルマだって、皆同じだったら選択時に迷う必要は無いかもしれないけど、全く面白くないでしょう?
どれ選んだって同じだよ、ではね。

それに、会社はもちろん世の中は、人と違ったことができる人達が集めって、変わったこと、面白いこと、役に立つことをデッカくやるから発展したり価値を生み出したりするわけでね。
学生諸君は、就活なんかが気になると思うけど、言われたことばかりやって、平均的というか、皆と同じになっちゃうと、別にキミを選ぶ理由は無いわけですよ。
前職で入社試験の面接担当をやったときなんかは
「あぁ、コイツも似たような事を言うのだなぁ」
と思っちゃったものです。

本人は皆と同じなじゃないと不安なのでしょうけど、募集する側は皆と同じじゃ面白くないのですよ。

学校みたいに、皆が同じようなことを同じようにする単一の尺度でのみ評価をするシステムってのは、ハンドリングしたりフォローするのは楽で良いのです。
毎年同じ事を繰り返して、新しいことを考えたりチャレンジしたりしなくても良いからね。

だけど、それと引き換えになっているものが意外と大きいわけで、それが歪みとなって社会に影響を及ぼします。
何事もトレードオフですね。

企業が毎年同じことしてたら継続できないでしょう。
特に製品開発なんかは分かりやすいかもしれないけど、それじゃ新製品できませんもの。

というわけで、基本的な知識ってのは汎用性があって、色んな事に使えたりするので便利で大事なのだけど、人から言われた通りに、むやみに広げたり狭めたり、均一に習得するのではなく、自らゴールを設定して、それに適した重心を考えてやってみるのが良いのではないかな、と思うのです。

そうしないと、面白さとか強みとかは生まれませんからね。

色々良くしたい…だったらどうする?

明るく元気に頑張ろう!
ってできたら苦労しないわけで。

ネットニュースを見渡せば、世の中事件やスキャンダルだらけで、世界情勢も不安定。
おまけに日本は暗黒の30年とか言われて、どうにも停滞気味。

明るく元気に前向きになるネタが見当たりません。

「あぁ、何かワクワクするようなネタが転がってないかなぁ」
と思う気持ちも分からなくもない。

そういった姿勢の場合、原因とか動機とか、そういったものを外に求めてるわけです。
ですが、そもそもそういうのって待つものでしょうか?

つまり、前向きになるための動機は他人が作るべきもの、という考え方ですよね。
で、自分はそれを受け取る側だ、と。
でも、自分で作っても良いし、むしろ自分で作れたら他に依存する必要は無くて自由自在ではないですか。

確かに外部要因がその場の環境を作る一端になっているのでしょうけど、そんなの人任せにしたところで、一体誰がやってくれるのでしょう。
まぁ、誰かしらそういった責務を負っているのかもしれませんが、それは誰なのか、いつ、どのようにしてくれるのか、それは自分の意に沿うものなのか、とか考えていくと、外部に期待する事自体がおかしな事だと思いませんか?
どうせ誰も自分の思い通りになんてしてくれません。

だったら、自力でやってみませんか?

別に急激に完璧な状態にする必要も無いし、それを求めたら「どうせできない」と言う結論になるのは明かです。

なので、今よりも少しでも良い状態にするために、少しずつでも何かやってみたらどうでしょう?
最初は、誰かがちょっとだけ嬉しくなることで良いと思います。
誰も気付かないようなことでも、ちょっとだけ誰かのためになることでも良いでしょう。
そういうのを「陰徳を積む」って言うのですけどね。

少しずつなら何かできそうだし、それを継続すれば、そこそこなことにもなりそうです。
そんな人がちょっとずつでも増えていけば、それが環境になって、その環境の影響を受けた人も何かやり始めて、どんどん規模が拡大すれば世の中変わりそうな気がしませんか?
少なくとも自分の周囲の環境はマシになるはず。

皆が小さなチャレンジを始めたら、きっと色々良くなるはずです。
別に最初からうまくいかなくても、やっていればそのうち何か気付きがあるはず。

そのためには、自分は受け取る側ではなく、やる側、発信する側だという意識を持つだけで良いのではないでしょうか。
で、ちょっとしたことをやってみて、それを繰り返すだけ。
シンプルですね。

で、実に当たり前の事実があります。

原因を変えれば結果が変わる。
やることを変えたら、それによる結果が現れるのは当然のことです。

新しい時代は混乱とともにやってくる

何やら世界的に混乱の予感がしてきましたね。
ただ、そういったことは今に始まったものではなく、周期的に発生するもののようです。
過去にも恐慌やら戦争やらはあったわけで。

ただ、そんな中にも気付きや学びはあります。

フェイクな情報や脅迫は、ディールのための武器になる
それは昔からあったことだし、事の大小の違いはあれど実は日常にも潜んでいることです。
カオスな国のお土産屋さんなんて、そんなのが日常だったりもしますしね。

ただ、それを国家間でやるとかなり困ったことになるのですね。
いやぁ、勉強になります。

正しいものではなく、強いものが正義
実はそれはずっと昔からそうだったのですけどね。
戦争なんて善悪の問題ではなく、勝った者が正義となるわけで。

でもそれが世界標準になってくると、昔からあったことでは済まされません。

今回言いたいのは、そういった混沌としたバトルの価値観に合わせていこうぜ!ということではなく、そんな中で我々はどう振る舞うべきなのかというのを考える機会が来たのではないだろうか?ということなのですよ。

以前、「余裕」について記事にしましたけど、こういった混沌とした状況になる理由は、やはり余裕が無くなってきたからなのでしょうね。

そういった一見厄介な状態が物事の見方を変えて、大きな価値の転換点となるのかもしれません。
かつての混沌とした時代で何が起きたかというと、革命やら改革です。
要は、大きく変わる前段階として混沌の時代があるということです。

民主主義だって、資本主義だって、人類誕生より前にあったものではなく、後に作り出されて、徐々に形が変化してきたわけで、もちろん今後も変わったり消えてなくなったりする可能性はあるわけで。
ひょっとしたら新しい形の文化が生まれる前段階がやってきたのかもしれません。

どうしようも無い行き詰まった状態になれば、変革を嫌う人だって変わらざるを得ません。

この状態の明るい面を見るなら、これから理想的な状態へ移行するサインみたいなものと捉えても良いのかもしれませんね。

で、どうしましょうか?
混沌の中で、我々が目指すべきゴールは何か?

混乱に乗じて一儲け…
ではありません。
そんなことをするから混乱するのです。

こんな時こそ道徳だと思います。
「得」じゃなくて「徳」です。

徳があるところに本当の価値がある。
もちろん金銭の問題ではなく、それを超えた価値です。

時代は巡るわけで、きっとこの状態は我らの先人がかつて通った道。
その時彼らはどうしていたのか?
そんなことを振り返ってみるのも良いかもしれませんね。