夢を現実にする仕事

教育の現場に課題があるのは明かですね。

なーんて偉そうなことを言ってみたりして。
世の中は常に動いているし、人には向上心があるのだから、教育の現場には常に課題があるものだと思います。
それが大きいのか小さいのか、というのはあるでしょうけど。

現在のような、少子高齢化とか、経済の低迷とか、世界情勢の不安定化とか、エネルギーや環境問題とか、色んなことが重なってくると、ますます難しいことになりますね。

と、ダークサイドに目を向けたところで、別に良いこと起きません。
問題を解決するというのは大事なことではありますが、明るい側を見ることは、もっと大事です。

というのも、我々は夢を実現するからです。

「そういう使命があるのだ!」
という心意気でも結構なのですが、もっと単純なところで言うと、SFでもアニメでも、小説でも妄想でも良いのですが、夢を見て実現仕様としたものが現実になっているのです。

製品でもインフラでも、何でもいいのですけど、現在存在するほとんど全てが「かつて見た夢」です。
思いを実現した結果です。

技術者は
「こんなのあったらいいのにな~」
を実現するのが仕事です。

新しいものを作り出すという創造的でダイナミックな面白い仕事なのです。

好きでもないことを嫌々やって、その果てにたどり着くわけではありません。
日頃から
「こんなのあったらいいのにな~」
を考えて行動していないと、社会に出てから急にやるのは難しいでしょう。

そう、日頃から夢を実現するトレーニングが必要なのですよ。

言われたことをやるのも大事です。
でも、夢の実現はもっと大事です。

知識やスキルは暗記したり反復練習などで身に付きます。
今やインターネットやAIがあるので、知識面に関して言えば、労せずにいつでも、いくらでも手に入れられる。

しかし、未来を想像すること、それを実現するために行動することは、日頃からやっていないとできません。
そして、それらは他から強制されてできるものでありません。

最終的には自分の心、思い次第。
さて、どうしましょうね。
自分次第ですよ。

とはいえ、果たして今は夢を見られる教育の現場になっているのか?
それも問題です。

ともかくゴールは必要だ

何をやるにしても、「それは何のために?」というゴールが大事、ということなんですけどね。

ゴールがセットされているか否かで、何をやるにしても結果は大きく変わります。

ゴールが無ければ、できなりで、出たとこ勝負になるわけで、結果はどうなるか分からない。
それはそうですよね。

ゴールがあってもチャレンジをしているなら、どうなるか分かりませんが、これはちょっと違う。

ゴールがあって、方向が定まっているのなら、チャレンジの結果うまくいかなかったとしても、方向は定まっているわけです。
なので、「どうなるか分からない」というのは、ゴールとの距離だけの問題になります。
なので迷走はしない。

ゴールが無い場合はそれどころではありません。
方向も距離分からない。
基準がないのだから当然です。

そういった状態でベストを尽くす気になるか?
そりゃ難しいです。
出口の見えないトンネルで、いつまで走り続けることができるか?
そんな感じになるでしょう。

なので、どれくらい頑張れるかはゴールによって決まるわけです。
特に困難に遭遇したときに、諦めるか否かのボーダーラインや、どのようにやるかは、まさにゴールがあるか無いか、どんなゴールを設定したかで決まるわけです。

そう、言ってみれば気持ちの問題なのです。
能力だけで結果が決まるのではありません。

だってね、「これをこのようにするのだ」というゴールを設定して、そのゴールに到達できなければ命を失うという状況だったとしたら、誰だって必死にやるわけで、そうなったら結果だって大きく違ってくるわけでしょう?
テスト前の一夜漬けなんかも一緒かもしれないけど。

ともあれ、自分が本当に何をしたいのか分からない
といった状態でゴールがセットできないとしたら、それはとてももったいないことなのですよ。

時間という名の貴重なリソースを、日々無駄に捨て続けているようなものですから。

だったら、思い込みでも勘違いでも良いから、何かしらのゴールを設定した方が百倍マシです。
どうせそれで損をすることはないどころか、間違いなくゴール無しより結果が出るものですよ。

とはいえ、やはり好きなことをやるのが一番だと思うのですけどね。
とにかく何かやってみて、楽しくなるような工夫、好きになれるような工夫をするというのも同じくらい大事だと思います。
だって、好きなことをやっていても、いつかはきっと壁にぶつかって行き詰まる日が来るわけだし。

チャンスは欲しいかい?

だったらこういう話からしましょうか。

苦労は買ってでもしろ

そんなこと聞いたことがあるでしょう。
このことわざ、実にもっともなのです。

しかし、「苦労」が全面に押し出されてしまって、それによって得られるメリットは分からない。
まぁ、ことわざってそういうものだし、和歌や俳句でも分かるように、日本語は本当に意味するところや大事なところはあえて表に出さないことで、それによって醸し出される真意とか美しさとかがある…

って、そういう話ではなくて。

これ、単に「原因」と「結果」を考えても当然ですよね、という話なのですよ。

苦労という原因には、色々と含まれているのでしょうけど、それによって得られることもあるのです。
当然ながらそれは、苦労しないと分からないことです。

ただ、ここで効いてくるのが価値観。

苦労という事象に対して、ニュートラルな受け止め方をするなら、色んな解釈ができるのです。

苦労したけど
失敗したけど
「これによって、きっと良いことがある」
というポジティブな判断ができたら、きっとその判断相応の結果が得られます。

というか、その判断によって、原因となった経験を再利用できると言ったら良いのかな。

しかし、ネガティブな解釈をするなら、原因となった経験を再利用することはできません。
もう見たくも考えたくもないでしょう。
見えもせず、考えることもできなければ、利用不可能です。

さて
「苦労せずに生きたい」
という気持ちは分からなくはないのですが、若い頃からそんなに労力を払うリスクにフォーカスしてたらどうなるのでしょう?

そうなると、嫌なはずのリスクにばかり目を向けることになります。
リスクを回避することのプライオリティが高ければ当然のことです。

リスクにフォーカスした人は、その処理が自分の内的な部分で済んでいると思っているかもしれませんが、実は外にも漏れています。
声や態度、雰囲気などなど。
するとチャンスはやってこなくなります。

だって、チャンスの多くは他人が放ってくれるものですから。

リスクにばかり着目する人にチャンスを投げても、面白くハンドリングしてるとは思えないでしょう。
せっかくチャンスを投げても、迷ったり難癖つけられたらガッカリです。
だからチャンスが来なくなる。

そして、チャンスの中にも多かれ少なかれリスクは含まれています。
労せずして形になるチャンスは無い。

それに、人生ギブ・アンド・テイクでトレードオフなのですけどね。

さて、ちょっと発散気味な展開でしたが、まぁそういうことなのですよ。

早い話、前向きで明るいバカ(良い意味でバカになれるということ)がチャンスを得るのは当然なのです。