自己を高めるということ

皆と同じようなことができなければならない
そう思うのは自然なことかもしれない。

しかし、それが才能とか資質を殺しているかもしれない
というお話しです。

皆と同じことができなければならない
他と異なることをしなければならない
そんな二つの矛盾の狭間に若者達(年長者も?)は生きています。

製品の開発者やアーチストなど、プロになってしまえば、さほど矛盾に悩むことは無い。
業務の内外で使い分ければ良いから。

レーシングカーを作っている学生などは

「そんなことに夢中になるのはいいけど
学生の本分は勉学なのだから」

と言われることがあるでしょう。

一体、何のための勉学なのか?
他と同じことをすることが勉学なのか?

差別化、競争力、独自性、優位性…

そういったものが必要ならば、何も他と同じでなくても良い。
むしろ、同じではダメだ。

皆が同じように、決められたことができなければならない
そういったことを欲する人もいるでしょう。

そういう前提であれば
「劣っているところを持ち上げる」
といったこと、マイナスをゼロにするようなことが必要でしょう。
そういうニーズに対しては、それが成長として必要なことなのかもしれない。

しかし、できること、好きなこと、得意なことを強力に伸ばしていく
それも成長なのですよ。

もし、高みを目指すなら、それら二つは、恐らく階段のように連なるものではない。
マイナスをゼロにしてからその先へ…
そんな風にできるのが理想なのかもしれないけど、そうはいかない。
大抵は、マイナスにフォーカスし続けてモチベーションが下がる。

いずれか一つを早期に選んで、強力にプッシュしていく。
今こそ、こうして自己を高めていくことが必要なのではないだろうかと思う。

その根拠?

そんなの簡単で、これまでのやり方の結果が現在なわけで。今の社会の状態ですが。
これは「やり方」よりもむしろ「方向性」の問題だと思うのですよ。
「内容」よりも「システム」かもしれないし
「知識」よりも「考え方」かもしれないけど。
そうしたらこうなりませんか?

リーダーはリードする…のだよ

「リーダー」を辞書で引くと
「指導者」とあったりしますが、それはリーダーの果たすべき役割の一部ですね。

一般的に、リーダーの役割は、人々をまとめ、導くこと
という認識でしょうか。

何に対して導くのか?
それは、未来に設定したゴールに対してです。

複数人のメンバーに対して、リーダーは一人。
なので、リーダーシップを持つのは一人で良い?

確かに集団を束ねるリーダーは一人が良いでしょう。
「船頭多くして船山に上る」とも言いますし。

しかし、相手が人に限らず、仕事をゴールへリードしていく資質というか、気概というか、そういったものは多くが持つべきです。

複数の学生で何かを作るようなプロジェクトの場合、複数の担当パートからチームが構成されていたりしますが、それぞれのパートが
「これは任せろ」
と自身の仕事をリードしていくようでないと、良い成果は出せません。

これは「責任を持つ」ということになるでしょう。
で、その責任を全うするために、自身の仕事のコントロールをしたり、リスクのマネージメントをしたりする。
とても大事なことです。

しかし最近
リーダーとしての資質やマインド、リーダーシップを持つ者が少ない
そう思いませんか?

そりゃそうだ。
言われたことができるようになるトレーニングばかりしていればそうなるでしょう。
言われたことをやるのも重要ですが、それはフォローであってリードでは無い。全く逆です。

優秀なフォロワーになる教育を、どこまで強力に推し進めると、優秀なリーダーが誕生するのでしょうか。
そりゃ無茶だ。

これは邪推かもしれませんが、もし、皆が平等で公平で均一で均質に…というトレーニングをされていたら…?
そうで無いことを願いますが、皆が同じように先生の言うことを聞いて、同じように行動する…というロジックになっていたとしたら、リーダーシップを取るのは先生以外許されませんので、結果としてはリーダーシップを育むことは不可能でしょう。

そして
リスク回避が、賢くて、お得で、それが正義だ
という価値観が幅を利かせていたりもする。

失敗するとリーダーは吊し上げられて攻撃されるというビジョンは容易に持てるわけで、そういう価値観を持つのは当然でしょう。

そういった単一的な見方になるのは、責任に伴うメリットが見えないのが問題ではないかと思います。
というか、責任を持つことに対するメリットを与えないのが学校でもあります。
そもそも、学生に責任を持たせないのが基本的な方向性でもあるわけで。

リーダーには責任がある。自由は責任を伴う。
これは言い換えればリスクがあるということでもあるが、そのリスクを負うことに対するメリットが無い。

それが無ければ、モチベーションが上がらなくて当然でしょう。

というわけで、このような現状を作り上げているのは環境です。

え?先生だろ?
と言いたいですか?
そうかもしれません。

でも、先生だって学校の方針に従っているわけで
学校だって文科相に従っているわけで
文科省だって政府とか過去の事例とかに従っているわけで…

なのですが!
自分以外の何かのせいにしても、何も良くなりません。

なので我々は、自分達にできる範囲で何とかしていく必要があります。
もちろんそこにもリスクはありますが、何かを得ようとしたら、リスクを払うのは当然のことです。
何を払って何を得たいのか
ということを明確にする必要があります。

ただ、学生に関して言うなら、払ったリスクに対する見返りが得られる日は来ます。
もちろん保証は無いけど、チャンスは来る。

それを信じて、組織に限ったことではなく、自身を、仕事をリードできるようになると良いですね。

「考える」ということ

最近、学生達と話していて気になることがあります。
分からないことが発生したら
「じゃ、調べてみます」
とくる。

良いんですよ、調べるのは大事なことです。
でも、行動の大きさというか、「枠」(わく)というか、戦略と戦術みたいな上位下位で言うと…

「考える」という大枠の中で、その中の手段の一つとして「調べる」があるべきだと思うのですよ。
だって、調べて分かることって、すでに誰かがやったことでしょう。
疑問に対する解決って、別に過去に誰かがやったことじゃなくても良いはずです。
むしろ、だれもやったことがない解決方法の方が価値があってエキサイティングでしょう。

調べて分かることは、既存の、答えがあること。
まさに定型的な「お勉強」で正解を出すプロセスですね。

それに、ここまでインターネットの利用が日常化したら、そうなるのは当然でもあります。

そこで出てくる「正解」は、間違えてはいないかもしれないけど、たぶん面白くはない。
ぶっちゃけ、あまり価値は無いってことです。
まぁ、無難ではあるでしょうが。

でも、そういったことって、夢工房でやっているような活動をするからこそ気付くわけで、恐らく多くは、そんなことなど気にすることなど無いまま世に出ることになるのでしょう。
なんか、もったいない気がします。

単に正解を知ったら、それを沢山知ったら、成長したと言えるのか?
そんなことはありません。
成長を構成する要素の一部ではあるかもしれませんが。

間違えていようが、レベルが低かろうが、自分で考えてみて欲しいのです。
成長のプロセスの入り口って、そういうものですから。