問題を突き抜けろ

問題の発見・解決とその能力は重要だとずいぶん前から言われてきました。

問題自体の捉え方にも色々あって
いわゆるネガティブな問題らしい問題を問題とするのが一般的ですが
これから取り組もうとする事柄自体を問題(課題)と捉える
という見方もありますね。

でも、ここでは前者の問題らしい問題を問題としましょうか。
ネガティブなヤツ
マイナスなヤツです。

誰もが何かしら問題を抱えているものだと思います。
一個も無いって人はそうそういないかもしれません。

日々、その問題に向き合って
四苦八苦してたり
どうしようかな~と悩んだり
してるのでしょうか。

問題は解決して当然とも言えますね。

でも
問題が存在する状態がマイナスだとすると
問題が解決された状態はゼロ

頑張って解決したところで
プラスではないですね。

何より問題なのは
問題に対峙したときの心のあり方です。

ネガティブな出来事を解決しなければならないという
心が萎縮してしまった状態で
最高のパフォーマンスは発揮できないでしょう。

なので
物事の明るい側を
狙えるトップエンドを見て
最高のパフォーマンスを発揮できるように頑張りましょうよ!

とか言うと

「お前、そんな偉そうなこという前に
やることがあんだろ!?」
とかいう台詞が聞こえてきそうですね。

そうそう
昔からよく言われましたよ。
で、嫌々ネガティブなものに
渋々対峙して

それを何度も繰り返すうちに
そういうロジックが癖になっちゃって
意識せずとも自然にそういう行動を取っちゃうようになりました。

それが正しいやり方だ
とか
その方が楽だ
とか
自分を騙したりしながら。

でもね
そんなロジックに従ったところで
大して良いこと起きないんですよ。

そんなのやって
夢が叶った!
とか聞いたこと無いですよ。

なので
そんなもん突き抜けてしまえ
って話ですよ。

安全・安心でいいのかい?

世に「安心・安全」というワードを
よく見るようになってしばらく経ちますね。
「当社は、安心・安全のために~」とかね。
いつ頃から言われ始めたのだろう?

安全というのは危険の無い状態で
それによって安心という気持ちが得られるのですから
本来はこの2つのワードを並べるべきではない気がしますが。
まぁ、揚げ足とりはやめましょう。

恐らくきっかけは
安心や安全に対して十分ではないと感じ始めたから
もしくは
安全であることが付加価値として前面に押し出せるようになってきたこと
そのあたりではないかと思います。

諸々の偽装問題や震災の時の原発事故などがあったり
自動車の衝突安全などの装備の付加などが前面に押し出されてきたり
環境問題なんかもあるでしょうね。

さらに深掘りしても面白いかもしれませんが
ここで言いたいのはタイトルの通りです。

もちろん生活する上で安全・安心は重要です。

もちろん業種や製品によっては
シンプルに
安心を提供する
ということに特化している場合もあるでしょう。

製品開発においては
安心を得られるレベルというのは当然のことで
その先にある付加価値をいかに高めていくか
ということろが勝負でしょう。

「安心」を辞書で引いてみると

心が安らかに落ち着いていること。
不安や心配がないこと。

とあります。

今回は何が言いたいかというと…

学校で、安全だの安心だのをゴールにしてしまうと
面白くないんだよね
ということが言いたいのです。
ワクワクしないんですよ。
やる気が出ない。

もちろん
組織として学生に安心を提供するのは重要なことです。
これを否定する気は毛頭ありません。

ここで言いたいのは
果たして安心を得ることが学生にとってのゴールとなってしまって良いのか?
ということです。

安心をゴールにして
それを得るために努力した場合
うまくいくと安心が得られるわけですよね。
ということは
うまくいかないと安心すら得られないということででしょう?

もちろん安心を求める学生がいても良いと思います。
でも
ワクワクすることをやってくれる学生もいてくれないとつまらないんです。

それに
学生自身にとっても大事だと思うんです。

仮に
「ボクはマトモなところに就職できれば満足(安心)なんです」
とかやられちゃうと
就職がゴールになってしまうわけでしょう?

安心が欲しければ
そのために必要な最低限のことをやるんでしょうけど
仮にそれがうまくいかなかったら
就職すらできないわけでしょう?

ゴールは就職じゃなくその先にあるんじゃないの?
自分が満足すればおしまい?
お客さんは満足させてあげないの?

(自分の)安心を求めてたら
(自分が)安心を得るのは結構難しいかも。

でも
何かワクワクすることにチャレンジしていたら
最低限なんかじゃ満足できないわけで
就職なんてできて当然でしょう。
その先に本当に欲しいことがあるんですから
安心を突き抜けちゃう。

そういうことなんですよ。

でもまぁ、こういうのって「振り子」みたいなもので
そのうち逆側に振れる時期が来るのでしょうけどね。

それを待ってるわけにもいかないな
とね。

幸福の根源は何でしょうね?

今日、大学内をてくてく歩いているときに思いました。
「何で日本は幸福度低いんだろ?」
「そもそも幸福って何なんだ?」

別に何か辛いことがあったわけではないですよ。
ご心配なく。
急に思っちゃったんです。
そういうことありませんか?

幸せって何だろうね?

ってこんなこと急に言い出したら気持ち悪いでしょうか。
気持ち悪いかもね(笑)

でも、何か解決策ないかな
と思っちゃいました。
で、こんなことを考えてました。

お金があったら幸せ?

そんなこと無いですよね。
だって、宝くじで「億」当てた人って
多くが人生破綻しちゃってるんでしょう?

同様に
何かいい物
欲しい物を手に入れる
ってのも違うな。

たぶん
何か「物質」を「もらう」ってことじゃないですね。

じゃ、逆はどうだ
「物質じゃないもの」を「あげる」
だ!

これ、当たってるかも!
いえね、最近改めて試してみたことがあるんですよ。
お店に行ったときに

挨拶して
ありがとうございます
って言うのを
改めてちゃんとやってみてるんです。

子供が元気よく言うように
バーン!!って言う訳じゃないけどね(笑)
いや、いずれそうやった方がいいのか?

飲食店ではずっと前からやってました。
相手が
日本人でも台湾人でもパキスタン人でもネパール人でも中国人でも。

それを
コンビニとかスーパーに行ったとき
もっとちゃんとやるように拡張しました。
前からもやってましたけど
それをもっとちゃんとやるようにしました。

するとね
やっぱり、お店の人嬉しそうなんですよね。
そりゃそうだよね。

ウチの工房の学生達と食事に行くと
奴らは帰りがけにお店の人に言います。
当たり前のように

「ごちそうさまでした!おいしかったです!」

やっぱりお店の人は嬉しそうですね。
そりゃそうでしょう。

で、お店の人はその後どうするでしょう。
きっと元気になって頑張ってくれると思うんですよ。

我々が次回行ったときにサービスしてくれることもあるけど
別にそれは期待してたわけじゃありません(笑)

元気になって頑張るお店の人にサービスを受けた
他のお客さんも喜べば…
おぉ、これは価値が循環しているってことだぞ!

この場合の価値は
相手の存在意義、存在価値です。

価値を認められたときって幸せですよね。

だとすると
そうか!
ひょっとすると
価値の根源は
幸福の根源は

ありがとう!か!
ありがとうって言うことか!

ってことに気付いてきました。

でも
こういうこと考えてる人
いっぱいいるんだと思います。
そんなこと当たり前だろう!
っていう人、いっぱいいるでしょうね。
そんなことないですか?
私は今頃気付いちゃいましたよ。

ところで
幸福感が高いと
誰かのためのことをやろうとするでしょう?

幸福感が低いと
誰かのためのことなんてやろうと思わないですよね。

じゃ、幸福感が高まるまで
人のためのことをやろうとしないの?
誰かが幸福感をくれるとか
そのうち幸福感に満ちあふれてくるとか
そうなるまで待ってるの?

それは待ってても来ませんよね。
やろうとしなければできるようにならない
けど
やろうと思ったらいつでもできる。

できるようになったらやろうなんて
思ったりするけど
そんなことはありえない!

面倒でもいいからやろうぜ!

ダメでもいいからやろうぜ!

だって、やらないとできるようにならないんだよ。
裏を返せば
やってれば、できるようになっちゃうんだよ。

とかね。

こういうの、ある程度歳いってから気付くんだな。
「あー、もっと早く気付いていれば
もうちょっとマシな人間になっていたかもしれん!」
とか思ったりもするけど
そんなことはあり得ない。
だって、気付くまで経験を積むプロセスが必要だったから。

なので、こういう話を若い世代に伝えているけど
100%伝わるとは思っていない。
そもそも彼ら
そういうことを本当に必要と思っていないかもしれないもんね。
せいぜい
「無くても困らないけど、あるとちょっぴり得する情報」
みたいな感じ?

でも、それでもいいんです。
話したことの1%でも伝わって
そのうちいつか、それを思い出したりして
で、試しにちょっとだけやってみたりして
それで彼らが
誰かをほんのちょっとだけでもハッピーにしてくれたら目的達成だ!

ほんとはみんながいっぱいやってくれると嬉しいんだけどね。