今日は恒例の隅田川花火大会。
いつも通り、日本初のF1マシン設計者で我々のお師匠様である佐野先生のお宅に卒業生とともにお邪魔してゆっくり鑑賞させて頂きました。
なんと恵まれてるのでしょう!
毎年ありがたいことです。

花火も進化してますね。
明らかに今までと違います。色も形も。
ショボい写真で申し訳ない。

卒業生達は期待通りそれぞれの分野で活躍してくれているようで何より。
で、あっという間に時間が過ぎて今日はおしまいです。
明日はこれまた恒例の東京観光です。
From the Workshop
今日は恒例の隅田川花火大会。
いつも通り、日本初のF1マシン設計者で我々のお師匠様である佐野先生のお宅に卒業生とともにお邪魔してゆっくり鑑賞させて頂きました。
なんと恵まれてるのでしょう!
毎年ありがたいことです。
花火も進化してますね。
明らかに今までと違います。色も形も。
ショボい写真で申し訳ない。
卒業生達は期待通りそれぞれの分野で活躍してくれているようで何より。
で、あっという間に時間が過ぎて今日はおしまいです。
明日はこれまた恒例の東京観光です。
今後はどういう時代がやってくるのか?
そのために今はどうすべきか?
というお話しです。
こういうの考えるのって楽しくないですか?
まぁ、半ば妄想かもしれませんが、こういうことを考えておいて損は無いでしょう。
まず今回のネタ
情報
です。
我々は情報を知覚し、それを元に思考し、決定して行動します。
なので情報は大事。
受験生に限らず、学生は良く言われるでしょう
「ニュース見ろ」
って。
最近はどうなのでしょうね。
ニュース、信じるべきなの?
という意見もあるでしょう。
「ニュース」
といったら、テレビかネットでしょう。
ニュースで報道していることは事実である。
という価値観はすでに崩壊している気がします。
ニュースは誰かしらが配信しているわけで、当然ながら何をどう伝えるかという思想信条に基づく価値観で判断された内容が伝えられています。
なので当然、価値観や思想が大きく異なる国では、一つの事象に対して異なる見方をしているわけで、報道内容も異なります。
そこには「目的」がある。
そんなことを言うと、陰謀論者みたいですが、そういうのは仕方ないでしょう。
そもそもものごとには多面性があるので、価値観が異なれば一つの事象でも異なった見え方があるのは当然です。
加えて最近ではフェイクニュースの出来も良くなってきていますしね。
一体何を信じたら良いものやら。
これはニュースに限ったことではありません。
日頃の生活で、我々が手にする情報全てにおいて言えることです。
この便利なご時世で、何が危ないかというと、なんでもかんでも考え無しに情報を受け止めてしまうことだと思っています。
ニュースを始め、ネットの情報もしかり。
それなりの形態を取った情報…このブログもしかりですが、たとえば活字なんかだと無自覚に受け入れてしまう傾向があったりしませんか?
YouTubeなんかは面白いですが、単に情報を受け止めているだけ。
思考のプロセスが抜け落ちてはいないだろうか?
そういう環境に慣らされると、情報に対して考えることをしなくなります。
習慣ってそんなものです。
噂話もそうだし、先生が言ったから、政治家が言ったから…
その情報を受け取って、即反応したりして、考えるプロセスをすっ飛ばしていませんか?
情報を受け取って、感情で反応するとか、単に処理するとか、そういったことになっていませんか?
短期的に楽しんだり怒ったり落ち込んだり、言われたことに従うだけだったり。
最近思うのですよ。
便利で楽ちんな世の中って、情報を受け取って単純に反応して、結果として自分を高めることにもなっていないし、誰のためにもなっていなかったりして。
自分が得して損しないための感情的な、ヘタすれば感情すら無い、しょうもない方向に行ってはいないだろうか?と。
要求された正解を求める
正解が出れば安心。
それは現在の我が国の学校においては当然のことで、最も価値があることとされている。
でも、それは本当か?
これからもそうなのか?
そもそも究極的に、あらゆることには絶対的な正解があるのか?
当然、無い。
しかし、テストの問題のようなものには正解がある。
そうじゃないと点数を付けて評価できないから。
そういった勉学のような、知識を獲得する過程におけるものは手段的なものなので、ある程度結果が明確でなくてはいけないのは確か。
ただ、そこにたどり着くプロセスは自由なはず。
何かをするための手段であれば、その結果が明確でないと困ってしまいます。
やったら何が起きるか分からない…では、その手段は使えません。
学校でやっているお勉強は、そういった手段的なものです。
決して目的ではないはず。
ましてゴールでもありません。
何かのためにどんな手段を用いるか
その手段を用いる目的
最終的にたどり着きたいゴール
本来それらは自由なはず。
自分で決めるべきものです。
その自由を奪うのは目的がある。
もちろん自由を放棄したとしても、それにも目的がある。
その目的は常識という名の、目の前にあるのだけど誰も興味や疑問を持たない領域にそっと隠されている。
我々の常識は違う環境、例えば、異なる仕事、異なる国、異なる時においても通用するのか、というと、決してそんなことはない。
自由が不自由に勝るのか
それは分からない。
自由も不自由も、当然一長一短。
自由を求めるか否か、何に自由を求めるか、それこそも自由。