法律とかルールは厳然たるものですが、それ以外の善悪とか得とか損とか、大抵のものごとの評価基準は、その人次第だと思っています。
モラルとか価値観に基づく部分ですね。
いわゆる「普通」と呼ばれる評価基準ってのはあるでしょうけど。
我が国は、比較的評価の「ものさし」が画一的だと思います。
多くの人が似たような価値観を持っていて、そこから外れることを嫌ったりします。
それが良いとか悪いとかを安直に言うのは難しいです。
というのも、画一的なものさしを持つからこそできることがあるし、その一方、できないこともあるからです。
そのものさしの基準から外れなければ、多くの人が同じようなことができるということで、それはそれでメリットがあります。
一つのオーダーに従って、皆が同じことをすれば、同じ成果が大量に得られて、コスト低減と品質の安定に寄与します。
一方、そのやり方では、少量で高い加価値を生み出すのは難しい。
そんなものです。
もちろん、少量で高付加価値を生み出す方法では、低コストな大量生産はできません。
どちらが良いと悪いとかいう話ではなく、両者にはトレードオフの関係が効いていて、時と場合に応じて良否が決まるというところでしょう。
ただ、これは理屈の話であって、実際にやるのは人間です。
人間はそう簡単には変われません。
あらかじめやるべき事を決められている環境に慣れている人は、環境の変化に対して
「余計なことはやりたくない」
と思う傾向が強いでしょう。
自由な環境で、自らやるべき事を決める環境に慣れている人は、あらかじめ決められた環境で、言われたことに単に従うことをやるのは難しい。
こういうタイプは、同じことの繰り返しには耐えられない。
現在、この両者のための機会があるかというと、そんなことはなくて、言われたことをやるのが教育だ、というような単一の環境しか用意されていません。
これから世の中が大きく変わるのは、ほぼ確定でしょう。
というか、すでに変わり始めています。
この先どうなるかは不確定なわけで、その先の見えない環境に適応するためには、どういう機会が必要なのか?
果たして今のままのやり方で通用するのか?
まぁ、通用しないのは明白なのですけどね。
みんな気付いているでしょう?直感的に。
で、どうしたら良いのか?
そんなのは誰にも分からないので、誰もあてにできません。
自ら考え、自ら試すしかありません。
試すための機会を、習慣を作っていますか?
安心して良いのは、どうせ正解なんて無いということ。
考えて試して、その結果でまた考えて…
そんなことをしていれば、そのうち何か見えてきますよ。
それを楽しまないとね。
