主体性は、価値創出の出発点です。
では、主体性が無いとどうなるでしょう。
当然、外部からの指示や情報によって動くことになるわけで、最終的には消費されて終わることになります。
学校にいる学生も同様で、主体性が無ければ、教育・学校という名のビジネスの単なる消費者になります。
学費を払う - 授業で先生から情報がアウトプットされる - それをインプットする
多くは、そのインプットされた情報を使う経験もなく終える構造を望んでいたりします。
評価としてペーパーテストがあったりしますが、その結果は、そのまま社会で通用するわけではありません。
主体的な行動による経験は、価値として蓄積されます。
いわゆる「引き出し」も、その一つです。
単なる「知識」と「引き出し」の違いは、経験に裏付けされたものか否かという違いもありますが、自らがそれを使うことを前提にしているか否かという側面が大きいでしょう。
主体的な行動において知識や経験を利用するか否か、ということです。
主体性は「人格論」でも「精神論」でもなく、価値を生むための構造的な必要条件です。
現在のやり方が時流に合っていないのであれば変える必要はあるでしょう。
しかし、それは「全部」ではありません。
まず明確にしておくべきことは、プロイセン型構造を全否定する必要はないという点です。
基礎知識の習得や安全教育などは、一斉・規律・評価型の教育との親和性が高く、今も有効だし、今後も必要でしょう。
変えるべきものは何か?
まず
教育は「教える」ものである / 「教わる」ものである
「言って」「やらせる」ものである / 言われたことをやるのだ
それしかないのだ / それだけでいいのだ
そこから先は、社会で何とかするのだ / してもらうのだ
という固定概念があるのだとしたら、それを何とかすることでしょう。
その前提に従うほど主体性は必要無くなるからです。
さて、一体どうしたものやら。
