どうしたら良いかは分かってる

基本的には

面白いことをやる
やることを面白くする
このいずれかじゃないと成果は出せない

と思います。
それは実体験を振り返って実感したことです。

そんなことは皆が薄々気付いていることでしょう。
だって、面白くもないことを一所懸命やるって無理ですよね。

でも、心のどこかでこんなことも思ってませんか?

キツいことをやらなきゃいけないのだ
…でも、できれば避けたい

葛藤ですよね。

そんな気持ちが、やっていることを楽しく変えていくことに対してブレーキを掛けたり、キツいことを面白くする前に手を抜いたり逃避した結果、ますますつまらない無意味なことになったりします。

そもそも、学校で
面白いこと、得意なことをとことんやらせたり
やっていることを面白く変えていく

なんて経験をする機会なんて無いですものね。

本当はそういうことを教えるべきなのではないでしょうか?
それで、面白くなっちゃったら、自分から突っ込んでいくはずですから、自ら学ぶ状態になるでしょう?

そうなったら
嫌なことを我慢してやり続ける
とか
やる気もない相手に無理矢理やらせる
なんてことは起きないのではないでしょうか。

なんか学校って、そういうことをする場所だという先入観がありませんか?
何も全てがそうじゃ無くても良いと思うのです。
まぁ、多少は嫌なことをする経験も必要なのでしょうけどね。

でも、基本的にはここうすれば良い事は分かってます。

機会を与えて
好きにやらせて
結果を評価する

これでうまく回ると、楽しくて健全で、成果を出せるはず。
かつてはそういう授業がありました。

考えてみると、夢工房はその授業の残骸のブラッシュアップ版なのかもしれません。

もっと磨かないとね!

今の教育の問題点

今の教育は、動機が不完全な状態で領域を絞った上で、専門知識だとか言いながら、なんでもかんでも言われたことを知って覚えてそれでなんとかなるだろう、みたいな受け身の人間を量産するようなやり方になっている気がします。

一方的に言ってやらせて、覚えさせて。

かつては、そういうのが汎用的な教育ってことで潰しが利いたのかもしれませんし、「従順」ってのが評判が良かったのかもしれません。

今後も、そういう人がいても良いのかもしれませんが、そのやり方一辺倒ではあまりうまくいく気がしません。

だって、動機が不完全な時点でどうかと思うし、競争力が無いやり方でやったところでモチベーションは上がらないだろうし。
そういう言われたらやるとか、単にメモリの内容を吐き出すような「作業」は、むしろAIに任せるべきでしょう。
そして人間は「作業」の先をやるべきです。

それに、従順で受け身の人を国内で量産するのは結構ですが、では一体誰が彼らにタスクを「放る」のでしょうか。

国内で「受ける人」と「放る人」のバランスが取れないということになったら、他国から「放る人」を連れてくるのでしょうか。

知識や知能を否定する気はさらさらありませんが、それらが活きるのは駆動力が発揮されてこそです。

クルマで言うなら、いくら驚異的な性能を持ったエンジンや車体があっても、それを駆動力を路面に伝えるタイヤの性能が低ければ全く何も起きません。
1万馬力のエンジンが搭載されていても、タイヤの性能がゼロなら、実質的なクルマの性能はゼロです。

知識とセットになるべき駆動力、パッションとか行動力とか言うべきものでしょうか。総じて人間力と言うべきかもしれません。それらは、両輪として働くべきで、どちらか一方じゃちゃんと走れないのです。

恐らくそんなことは多くの人が気付き始めていることでしょう。
ただ、試してみたり実際に行動するには勇気が必要だったりするわけで、ダメかもしれないけどやってみるなんてのは、これまでの価値観に反することでもあるでしょう。

でも、今までと違ったことをやらない限り、違った結果は起きません。

今、満足いってますか?納得できてますか?
それは今のやり方の結果です。
なので、やり方を変えなければ今のままです。
それでも良いですか?

誰かが何とかしてくれるなんて期待しない方が良いです。
恐らく誰も思い通りになんてしてくれませんから。
というか、できない。

先の見えないこのご時世、価値観が変わるほどの変化が待っている可能性が大きいです。
そういう場合、事が起きてからマッチングを取るのはとても難しいはずです。
だって、今までと異なる未来なら予測が付かないのだから当然です。
そんな予測が付かないものに対してマッチさせるとかフィットさせるなんてのはとても難しいこと。

であれば
自らチャレンジして未来を切り拓いていく
これでしょう。
チャレンジが大きいか小さいかはともかく、そういったことに価値が出てくるはず。
というか、それは時代に関係なく価値を生み出す普遍的な方法なのですけどね。

カッコよく言うと難しそうな気がしますが、本質は単純です。

とにかくやってみなはれ

ということです。

良い子のパラドックス 行き詰まった時に

いわゆる良い子が、うまいことやろうとして逆にうまくいかなくなることがあります。
今回はそんなお話し。

良い子を吊し上げるネタが多いのは、私が持つコンプレックスのせいです。
というのはあながち冗談で無いかもしれないのですが、やはり学校では、良い子は評価されがちな反面、そのやり方じゃうまくいかんだろうなぁ、と感じることも多々あるわけで。
そういったもったいない状況を何とか改善できないだろうか、と日々思うのです。

さてさて、では本題に入ります。

何かを開発するようなミッションを遂行するようなときに良い子の特徴が現れます。
まず考えるプロセスから始まりますよね。
そんな時、いわゆる良い子は失敗したくないと考えることが多いようです。
「体面を保つ」みたいなことなのでしょうかね。

度合いは人それぞれですが、失敗したくないという感情によって、言ってみれば恐怖が動機になって行動することになります。
なので、視野は狭まり体はこわばり…というのは言い過ぎですが、あまりポジティブな状態ではなくなります。
そういう状態で良いアイデアを出すというのは無理ですね。

そもそも、失敗しないことがゴールになっているので、うまくいくためのことを考えていなかったりもします。皮肉です。

それに「失敗しない」というワードの「しない」=「やらない」が深層心理の駆動力にもなりそうですね。

失敗しなければそれは成功だ!みたいな訳の分からないことになっていたりもします。
もちろん、その状態で自分のミッションと照らし合わせるとズレが生じているわけで、「いや、そうじゃないよな」と軌道修正を試みるも、どうにもしっくりこない。
そういった状態がループになって、延々と考え続けることになったりします。

そのループから出られないのは、やらないと分からない事をやらずに分かろうとするからとか、何事も正解を得てから、というのが原因であることが多いです。
もちろん「失敗しないために」ですね。
そういう環境で育ってきたら仕方ないとは思います。
私も身に覚えがありますし。

でも、その価値観でいくとチャレンジはできません。
チャレンジするということは、失敗も含むことをやることです。
何が起きるか試すのなら、うまくいく保証はありません。
そこにうまくいく保証みたいなものを求めちゃうと前に進めなくなります。

新しいものをつくるとか、新しいことをやるのだから、何が起きるかはやってみないと分からないのです。
というわけで、行き詰まった時に大事なのは「何をやってみるか」だよなぁ、と思うのでした。