時代の変化に伴う教育の変化 2

「言われたことを」「やる」で、その時の感情と行動の組み合わせを並べてみましょうか。

ケース1
言われたことをやるのが好きなので(感情・価値観)
言われたことをやる(行動)

何が起きるか
これは想像しやすいかな。いわゆる「良い子」でしょうか。
言われたことをやるのが好きなので、言われたことをやる。
というそのまんまの感情と行動がストレートに結びついています。
これ、一概に悪いことではありません。

でも、違う見方もありますよ。
自分発で考えることができない、もしくはそうしたくないので、言われたことをやる。
そんなこともあるでしょう。

ケース2
言われたことをやるのが好きだけど(感情・価値観)
言われたことをやらない(行動)

「言われたことをやらない」を、単に「行動しない」とするならば
言われたことをやるのが性に合っている。けど、行動はしたくない。
となるかな。
ちょっと訳が分からない感じですが
言われたことをやる方が楽だからそうしたい。でも行動するとなると面倒。
そんなのはありがちではないかな。

「言われたことをやらない」を、「言われた通りのことをやるのは嫌だ」とすると、もうちょっと訳が分からなくなります。
言われたことをやるのが性に合っている。しかし、言われた通りのことはやりたくない。
おかしくないですか?
でもこれは一見おかしいですが、初動のトリガーは人任せだけど、具体的な行動内容や細部にはオリジナリティを入れたいとか、そういうのはあり得ますね。

ケース3
言われたことをやるのは嫌だけれど(感情・価値観)
言われたことをやる(行動)

自律的にやってみたいけど、うまくできない。なので従う。
そんな感じかな。
まぁ、ビギナーにはありがちですね。

ケース4
言われたことをやるのは嫌で(感情・価値観)
言われたことをやらない(行動)

これはもう、「やりたくないならやらなきゃいいじゃん」って感じです。
一見破綻しちゃってますが、あながち無くもない話です。

本当はオリジナリティを発揮して、クリエイティブなことをやりたいのだけど、失敗したくないから動けない
ありえるでしょう?

とまぁ、「言われたことを」「やる」をテーマに、軽く、かつテキトーに考えてみただけでも色んなケースが思い付くわけですが、これらをいっしょくたにして、全員に「言ったことを同じようにやれ」ってな感じで処理しようってのは無理がある気がします。

そして、そのやり方で「高い価値を生み出すために、言われていないことをやる」という方向に向けるのは、さらに無理でしょう。
それはもう、知識量とか学力とか学歴とか、そういう問題ではないから。

続く…かも

時代の変化に伴う教育の変化

学校では、「言って」「やらせる」といったことをしています。
平たく言ったら強制です。
でも、どうやらそれが現在まで続く教育の形のようです。

「教え」「育む」なのだから、それは外部からやってあげることではないか!

うむ。字を読んだらそういうことですね。
であれば、子供達のパフォーマンスアップのためには、「科目を増やして沢山やらせるのだ」とか「とにかく学習の時間を延ばすのだ」とかなるのはごく当たり前ですね。

もちろんそういうのもあって良いと思う。今まで一定の効果があったわけだし。
言われたことをやるのが得意な人もいるから。

けど、一方的に突っ込むだけが教育だというのはどうかと思うし
言われてもいないことができる
とか
言われなくてもやる
とか、そういう付加価値に繋がりそうなことを伸ばす機会はなかなか無かったりします。

そういう状況で、突然「自発的に」とか言われてもね。
でもまぁ、時代が変わりつつあるのだから、そういう矛盾が生じてくるのがこれから、って事なのだとも思います。

さてさて

言われたことをやるのが好きな人
はいます。でも
言われたことをやるのが嫌な人
がいますね。

「言われたことをやるのが好き」
の場合
他者に従うのが好みである
というケースもあるでしょうし
その方が楽だからそうしたい
というケースもあるでしょう。

「言われたことをやるのが嫌」
の場合
単に他者に従うのが嫌
というケースもあるでしょうし
自分のやりたいことをやりたい
というケースもあるでしょう。

そして、「好き」とか「嫌」というだけでなく、これとは別にどのように行動するのかというのもありますね。

言われたことをやる人
がいて
言われたことをやらない人
がいる。

「言われたことをやる人」は
そうすることが好きなケースもあるでしょうし
仕方なかったりするケースもあるでしょう。

「言われたことをやらない人」は
行動しないというケースがあったり
言われたことと異なったことをやるケースがあるでしょう。

この辺を考えてみたら何か見えるかな?と思ったのでした。

続く

興味に・直感に従おう

興味を持てないことなんてうまくいかない。

それは自分自身の今までの経験からも、学生の成長を見ても実感したことです。

けど、周囲を見渡すと、興味が無くてもソコソコ何とかしなければならない、というようなことばかりではないかな?

「言われたことをとにかくやって、その中に興味を見出しなさい」
といったようなことはあるかもしれませんね。
まぁ、それはそれで良いのかもしれませんし、それが必要なこともあります。

でも、そもそも「言われたことをやって」という辺りに怪しさが潜んでいるというか…
時と場合と程度によっては、それがトリガーとなることはあるでしょう。

しかし、年がら年中、何から何まで「言われたことを…」となると、困ったことになります。
言われないと動かない、言われたことしかやらない(やれない)となってしまう。

しかもその場合、言われたこと(しか)やらなかったりするので、最低限の結果しか得られません。
そして、それで安心したりします。

そんなこんなで、言われたらやる、最低限やるというのが習慣化されていきます。

それで良いなら別にかまわない、と言いたいところですが、そうはいきません。
そんなの面白くないから。

最低限を狙って、本当に最低限に到達するのは実は凄く難しいことってのもありますが、仮にそれが成功したところで、そこにあるのは安心で、喜びには到達できません。
なので面白くない。

でも、最低限を狙って安心を得ることが喜びだ、みたいにはなるかもしれません。
それまた面白くないですね。

で!

何が言いたいかというと、我々はもっと高い付加価値を追求すべきではないかということです。

だって、人件費が高くて、人口が減少していくのでしょう?
そんな環境で、皆で同じように最低限のことをやっていたら、ガンガン下降していくのではないかな?それはもうあらゆることが。
で、心が萎んで守りに入って、下降のループが加速していくのは目に見えていませんか?

こういうことの理屈に関して私は素人ですが、それでもこのくらいの見当は付きます。
というか、そんなのは誰でも分かることですよね。

人件費が高くて、人口が減少していくのであれば、それぞれがより高い価値を生み出せるようになる必要があるのでしょう。
効率やら何やらってのは、その先の話だと思います。
そういうのって、ものを作れば誰だって分かることだと思います。

面白さに絡めて、独自性や希少性を追求していけば、きっと上昇のループを作れるはずです。
そこで大事なのは、やはり興味を持てることでしょう。

「あ、これは好きだな」という直感は思いのほか正しいです。
いや、別に正しくなくても良いのです。そう思うことが大事。

「好きだな」という思いは強力な動機ですから。
それ以外に理由は要らないくらい。
「好きだからやってる」というのは崩しようがありませんもの。

その気持ちから
知りたい、できるようになりたい
と、自分発の本当の学びが始まるのが健全なのではないかな。

そこから始まる上昇ループには終わりがありません。
しかも自発的です。
こうじゃないとね!