続・技術の発展とのトレードオフ

技術が発展すると
何かしらのトレードオフが起きるということで
前回はエネルギーの消費という観点に着目しました。

まぁ、良いことばかりじゃないよね
ということです。

今回は人間の能力に着目してみましょう。

そもそも
どうして技術を発展させるかというと

楽したいからです

ですよね?

身近なところで言うと
カーナビを使って運転していると
地理やルートを考えたり
覚えたりする必要は無くなります。
便利でいいね!

でも、労力を払わなくて良くなった反面
今まで必要だった能力は必要なくなるわけですね。

今まで使っていた能力があるなら
多少それが衰えたところで
あまり問題は無いのかもしれません。
それがどういう能力なのか分かっているから。

でも、そもそも地図を見たり
その地図の中の空間における
自分の位置や経路を認識したり
推測したりする能力を
獲得する機会が無かったらどうでしょう。

これ、いわゆる空間認識能力
ってヤツです。

これは、クルマに乗るときだけではなく
他のことに応用が利くのです。

例えば
目標を達するために何かに取り組んでいたりするとき
今の自分が置かれた状況と
ゴールまでにやるべきこと
そういったものを
あたかも地図上に自分がいるように認識して処理する
とか。

安全で快適で便利で
やるべき事は常に外部から指示される
という環境で生活をしていたら
そんな能力は必要ないでしょうけど

一歩、そういう環境から出ると
途端に重要になったりします。

「出なければいいじゃん!」
というわけにはいきません。

そもそも便利な環境は
自分以外の誰かが
考えて、作って、提供してくれたものです。

例えば
学生として生活していると
大抵は消費者としての経験しか無いわけで
当然、提供される側ですが

学生生活が終わって
仕事をするとなると
それらを提供する側に回るわけです。

立ち位置が一気に変わるわけですが
これはなかなかキツイ状況でしょうね。

技術が発展すればするほど
そのギャップは拡大していくのではないかな
と思っています。

今回はカーナビを例に挙げましたが
こういうのは、そこら中に見られると思います。

クルマをはじめとする乗り物の性能向上
天気予報の精度向上
インターネットをはじめとする情報関連の発達
あらゆる製品の安全性向上
などなど

みーんな便利になって良かったね!
なのですが
同時に何かを手放しているのだ
ということも分かっていると良いのではないかな
なんて思っています。

近所の公園から
エキサイティングな遊具が無くなったのを見て
「これで安全で安心だ」
と思う人もいれば
「そんな環境で成長して将来大丈夫だろうか」
と思う人もいます。

そもそも最近は子供は公園で遊びませんけどね(笑)
似たような事例はそこら中にあるわけで
世の中「絶対」なんてことはないので
色々変わっていくのです。

そんな中で
自分はどうすべきかを考えて
試していくのも面白いでしょうね。

未来をつくっていくということ

「自分が播いた種だ」
などと言いますね。

これは、どちらかというと
ネガティブな表現ですが
ポジティブ、ネガティブ問わず言えることです。

播いた種から芽が出る
種を播けば必ず芽が出る

つまり
自分の行いによって未来が変わる
ということです。

「自分は大したことはできないから」

いいじゃないですか
大したことじゃなくても。

小さいことだって
コツコツやっていったり
皆でやっていけば
何かしら良いことに繋がっていったり
楽しくなったりしますよ。

「やることが正しいとは限らないから」
「失敗するかもしれないから」

いいじゃないですか
どんな立派な人だって
経験が十分じゃないうちは
しょうもないことをやってたりするものです。
やりながら最適化すれば良いですよ。

大事なことは
「発する側」
になっていること
そういう意識を持っていること
なのだと思います。

そうではなく
もし一方的に受け止める側になっているとしたら
それは大変残念なことです。

だって、面白くなっていかないから。

学生を見ていると
彼らの課題はもちろん
自分に対しての課題も次々に見えてきます。
それらはそんなに簡単にはできないことばかり。

でも、自分にできていないからといって
学生に課題を投げかけないわけにはいかないと思っています。
(具体的な「ああしろ、こうしろ」ではなく)

なので
「じゃぁ、あんたはできてんのか?」
と言われれば
答えは簡単で
「できてないよ」
なのです。

できていないからといって
やろうとしないのは
面白くならないし
未来に対して無責任です。

その未来は
自分の未来ではなく
皆の未来なのですね。

なので
「みんなでジタバタやっていこうぜ!」
ってことです。

端から受け止める側に立場を固定してしまっているより百倍面白いですよ。

自分は一体何者なのか

これはなかなか自分一人では分かりません。
もちろん一人で悶々とすることはできますが。

そもそもそういうのって
基本的に相対的なものでもあるから。

なので
自分から他人に向けてアウトプットして
そこから反射してくる情報を元に
他と比較して
自分は何者なのかを確認するしかない。

一人悶々とするなら
周囲を見回して比較して
確認するしかない。

実はこの
「自分は何者なのか」
というのは
長い事考え続けてきたテーマなのです。

自分自身がどういう人間なのかをもっと知りたい
ということも興味があったけど

今回言いたいのは
冒頭にあるように
自分が何者なのかというのは相対的なもの
だということ。

もし、この世に自分一人しかいなかったら
それは何者でも無いのです。
たぶん。

ちょっと分かりにくいですか?

例えば
「楽天的」
という物差しがあるとします。
まぁ、何でも良いのですが。

では、それがどの程度なのか?
と考えるとき
どうしますか?

必ず対象を思い浮かべます。
同僚だったり
友人だったり
想像上の一般的な人だったり

なので対象無しに
「自分はこうだ」
なんて言えないんですよ。

さてここからが本題

今の自分に満足がいっていないときに
一体どうしたら良いのか

まず
自分が意識できている部分と
自分が意識できていない部分がある
ということです。

最近とみに多いですね
この意識・無意識ネタ(笑)

自分で意識できている部分は
頑張って何かしらやっていれば良いのでしょうけど

無意識の部分は
自分では分からないのです。

なので「反射」を使うしかない。

誰かに向けてアウトプットして
コミュケーションを取るしかないでしょう。

相手からの反応で
自分は何者なのかを知る。

この場合
相手の選定が重要です。

仲の良い友達や
自分に対して批判的・否定的な意見を言わない者からは
十分な反射が得られないかもしれません。

あまりネガティブな部分にフォーカスしたくはないのですが
やはり誰しも意図せずに
しょうもないことをやっていたり
言っていたりするものです。

そういう点も
ためらわずに言う相手と
コミュニケーションを取らないと
自分は一体何者で
どうしたら良いかが十分に分からない。

誰しも自分の伸ばしたい部分と
変えるべき部分があるはずです。

伸ばしたい部分は比較的意識に昇ってきているから
やるだけ、頑張るだけなのですが

変えるべき部分は
そもそも、それに気付いてもいない場合がある。
それを掘り出してくれる人が必要です。
そういう出会いがあるなら
それはとても貴重なことです。

年齢を重ねると
そういうチャンスは
どんどん減っていくし
そもそも、そういう話しを受け入れにくくなります。
人にもよるでしょうけど、多くはそうなります。

なので
これは年長者にとっても問題なのかもしれません。

であれば
若いうちこそチャンスですね。

周囲に対して
自分は何者で
一体どうしたら良いのか
というのを考えないと

自分のやりたいことばかりをバリバリ伸ばして
周囲とうまく関係が作れない
なんてことになって
せっかく良いもの持ってるのに
それを使いようがない
(価値に変換できない)
なんてことになるのは目に見えてます。

また今回も偉そうなことを書いてしまいましたが
実はこういうネタって
学生を見て思ったことを
自身にも向けてみて

「自分も、まだまだだなんだよなぁ…」

なんて思いながら書いているのですよ。