お勉強のお話し

学校では色々お勉強するわけですが…

義務教育の時の内容って
国語や算数、理科などにしても
すぐ役に立ちますよね。

本が読めるようになったり
八百屋さんでお買い物ができるようになったり
自然現象が理解できて、少々利用できるようになったり

いずれも即効性のある内容だったりするわけです。
まぁ、義務教育ですから
そういうものでしょう。

対して
大学の勉強はどうでしょう?

難しい理論とか公式とか
覚えられないと試験で点数が取れなくて留年するとか
そういった問題はあるものの

実生活ではほとんど役に立ちません。

ヘタすると、卒業するまで必要無い内容だったり
一生使わない内容だったりもします。

さらに、一体何の役に立つのかすら分からなかったりもします。

教員がこんなこと言ったら怒られるかもしれませんが
そういうものができるようになるモチベーションの源泉が無いのですよね。

あるとすれば
留年したくない
とかのネガティブ方向の動機です。

これ、どうなんだ?と思いませんか?

やはり、好きな分野を学ぶために勉強するのですから
知ったことをすぐ実践できれば楽しくなるし
楽しいことなら当然学習効果は高いのです。
実践を伴うことであれば、忘れることもありません。

凄く当然のことなのですが実際はそうはならず
我が国の教育はこれまで通り
逆方向に行こうとしている気がします。

これでいいのかなぁ
と思う反面

だからこそ夢工房は
為すべき事を為さねばならぬ
頑張らんとな
と思うのです。

我が東京電機大学は
「実学尊重」
ですので、まだマシなのでしょうけど
改善の余地はあるでしょうね。

フラフラしなさい

限界領域でフラフラするのが理想ってことです。
何のことかよく分からないでしょう。

有限な時間の中で
最大限の成果を出すためには
一体どうしたら良いのか?
とか
パフォーマンスを伸ばすには
一体どうしたら良いのか?
というお話しです。

最初にお断りしておきますが
「分かっている」と「できる」は別です。

なので、このブログで偉そうなことを書いていますが
何事においても完璧にできるわけではありません。
でも、ある程度の実体験があるから
自信を持って書いています。

というか、常識的な内容ですが。

ちなみに
本質的なセオリーは
意外なほど異なる分野においても共通です。

理想は
限界ギリギリのパフォーマンスを発揮することです。

そして、それを繰り返していけば
パフォーマンス自体が向上していきます。

しかし、一番の問題点は
限界は目に見えない
ということです。

果たして自分はどこまでいけるのか
それはもう、色んな意味でですが
そもそもそれが分からない。

なので、何をどこまでやったらいいのか分からない。

「分からない」
という感覚は、恐怖というか不安に結びつくので
その領域には近づきたくなかったりします。

そもそも勇気が要りますね。

なので、多くは限界よりもかなり低いところで
足を止めます。

もちろん、限界から遠い領域では
いくら頑張ってもパフォーマンスは向上しません。

それはスポーツのトレーニングと同様です。

ちなみに
トレーニングの主な目的というか効用は二つあります。

一つは限界を押し上げること。

もう一つは
何度も繰り返すことで
考えずともできるようになること。

いずれも限界点を引き上げるために必要なことです。

さて
で、限界を引き上げるためには
限界点を知らなければなりません。

そのためには
一度限界を超えてみる必要があります。
それしかありません。

で、そこから加減していって
「あぁ、この辺が限界なんだな」
と分かったら調整して

限界領域あたりをフラフラしながら継続する
これです。

レーシングマシンをセッティングする際の方法も
似たようなアプローチです。

ちなみに、夢工房に良く来てくれる
元世界GPライダーの上田昇さんから
レースの時の限界点の探り方の一例を聞いたことがあります。

世界GPをラウンドしていると
初めて走るサーキットもあるわけで

勝負の決め手となりがちな
ストレートから第1コーナーの進入など
どこまでブレーキを我慢して突っ込めるかを
真っ先に知る必要があります。

そんな時は決勝前の練習走行時に
ブレーキングの開始ポイントを思い切り奥にとって
あえてオーバーランしてしまうそうです。

で、「あぁ、ここまでは行けないんだな」
と理解して、そこから逆算で最適化していくとのこと。

…言うのは簡単ですが
こりゃ、勇気要りますね。

でもほら、セオリーは一緒なのですよ。

上田さんが世界GPを走っていたときのヘルメットを頂きました
1992年シーズンの時のものですね ウィキペディアより

とはいえ、このご時世
限界点まで近づくようなことは
「ブラック」とか「ハラスメント」とか
そういう分類をされがちです。

ただ、自分で好き好んでやる分には
この限りでは無い。

なので、この先
自発的に動く者と
外発的動機で動く者の差が
もの凄く大きくなるはずです。

だからこそ
好きなことを全力でできる環境が重要になってくるのです。

差別化に価値を見出すということ

つまり「違い」ということですが。

違っているだけでは価値にはならない。
そこには優位性が必要。

概念的には、「優位性」を構成するものの一つに
「違い」があり、それが必要ということ。
なので、優位性のための違いと言うべきですね。

ところが
先の見えない世の中になると
皆が不安な気持ちになるわけで

そういった状態だとリスク回避で妥協したり
同じようなものを求める傾向になります。

違っていることを考えたりするのは面倒だし
それをやったところでうまくいく保証は無いし

誰かが言う、いわゆるセオリー的なものに従っちゃうのが
面倒が無くて確実な気がしますね。

果たしてそれは
リスク回避になっているのでしょうか?
その辺を考えてみましょう。

学校では
「皆同じようにできるようになりなさい」
というやり方です。

そこで
「皆と同じじゃないと不安」
という人間を育てています。

それは学校だけに限らず
社会の傾向だったりするでしょうし
家庭でも、それを望んでいたりするかもしれません。

そこに先の見えない未来への不安がブーストを掛けます。

「いやいや、そうじゃなくて
基本的なことは、皆同じように知っていないと…」
それはそうです。
義務教育では、そういう風にやる必要があるのかもしれません。

でも、義務教育課程を過ぎてからも
そのやり方が固定されているなら
学校を出てからも同じように義務的にやるでしょう。

結局、同じ「型」しか知らなければ
同じようにしかできない。

でも
「基本的なことをしっかり理解したら
その先の応用だってできるのだから」
というのであれば同意できません。

応用というのは
単に「難易度が高い問題」ではなく
現実社会への適用です。

学問レベルの「知る」だけでなく
実際に「やる」ということです。
この二つは大違いです。

大学を出たら社会で仕事をするわけで
そのために必要な準備をする必要があります。

最初は「型」通りでも良いですが
型を破り、独自性を追求する経験も必要でしょう。

皆と同じことをしたい人間が社会に出て
ものを作る仕事をしたら
優位性が無い製品になるのは当然でしょう。

作ったものは、作った人以上にはなりませんから。

そして
優位性の無い製品をお客さんに買って欲しい
というのは無理な話です。

さてさて
あなたはどうしたいですか?

方や、先の見えない状態で
差別化、優位性を求めてチャレンジする

一方は、可能な限りリスクを排除して
周囲の流れに乗る

いずれも保証なんてありません。
自分次第ですから。