精神論について

以前は
「精神論(根性論)ではどうにもならん」
みたいなことを聞いた覚えがありますが
最近ではあまり聞きませんね。

根性ある人が減ったから?

まぁ、そうかもしれませんが
「そういうのじゃどうにもならん」
というのが常識になっているからかもしれません。

精神論じゃどうにもならんなら
何ならどうにかなるのかな?

理論?とか知識?

それは嘘です。

理論や知識はもちろん大事ですが
理屈で人が動くなら
学生達は全員がもっとお勉強ができるようになっていて
全員がいわゆる一流大学に行っているでしょう。

でも、ひょっとしたら
お勉強する必要性に関するロジックが
理論として成立しないのかもしれませんが。

まぁ、その辺は置いておいても
「頭では分かっているけどできない(やる気になれない)」
というのは誰でも経験があるでしょう。
私なんて年がら年中ありますよ。

なんでそんなことになっちゃうかというと
そもそも「やるかやらないか」なんてのは
気持ちの問題だからです。
心の問題です。

「やる気になれない」
なんて、読めばそのまんまじゃないですか。

もちろん言った本人は
それが理由になると思っているし
それを聞いた人は
「じゃぁしょうがないなぁ」
なんて言ったりするくらいだから
理由としては市民権を得ているというか
ちゃんと成立しているみたいですよね。

あと、我々の周りにある製品。

周囲には多種多様な製品があるでしょう。
これ、全部人が作ろうと「思って」作ったものですよ。

頭の中に豊かな知識があったら
いつの間にか自然と物体になって目の前に現れた
みたいなものは一つもありません。

我々の心を動かすほどの素晴らしい製品は
ほぼ間違い無く
熱いパッションが根源にあります。

そこに、知識とか経験とか工夫とか
実現するために必要なものが動員されて
形になるのです。

自分が望むものを形にするために
知識や経験が無ければ
調べたり試したりして
足りないものを身に付けるのです。

学生時代に学んだ知識や経験だけを動員して
製品ができるはずはありません。
そんなの当たり前でしょう。

もちろん精神「だけ」じゃ
どうにもならんのですけどね。

でも、パッションを起点にして
必要な知識や経験を掴みに行く
という行動に繋がることはあるけど

知識を起点にして
行動に移行するのは
あまり無いのかぁと思います。
もちろんゼロではないでしょうけど
少ないですよね。

ずいぶん前の話ですが
海外のFormula SAEの大会で
現地の学生と雑談をしているときに
何気なく
「良いクルマ作るのに何が一番大事だと思う?」
って聞いたのですよ。

そうしたら
「そんなのガッツに決まってんだろ!」
って即答しましたよ。

精神論って
昔の日本人の専売特許で時代遅れな価値観だ
って思ってましたか?

ひょっとしたら
今の日本人が失っている
最もクリティカルなことの一つかもしれませんよ。

手段と目的

「日本人は…」とか言うのはあまり好きではないのです。
だって、人によって色々違いますし。
でもやはり、傾向ってのはあるもので。

日本の教育ってあまりに受動的すぎて
目的なんて要らないのですよね。
皆が色んなことを同じようにできなければいけない
という今のやり方では
むしろそんなものがあったら邪魔なのでしょう。

そもそも教育なんてのは
何かしらの目的のための手段のはずなのに
今やそんなものは見当たりません。

手段が目的化してしまっています。
「勉強できるようになること」
「良い学校(良い会社)に入ること」
が目標になっているでしょう?

それ、本来は手段でしょう。

というか
150年前の富国強兵とか
70年前の高度経済成長と
同じやり方をしている気がするのですが
どうでしょうか?

時代が時代なら
それが必然だったのでしょう。

特定のことに対して
ある一定レベルの人材が沢山いたら
有利な時代だったわけですが
今はどうなのでしょうね。

多様化に対応しなければいけない時代に
学校に限らず社会という環境は
若者達を収束させる方向に向いたまま
のように見えます。

もちろんその環境の影響を受けた彼らは
自ら自然と収束していきます。

何のためにやってるかは分からないけど
勉強できたら何とかなるでしょう
言われたことをやればいいでしょう
みたいな感じで

皆が同じようなことを
同じようにできなければいけない
という価値観に収束していませんか?

そういうやり方じゃ「尖ったもの」は生まれません。
だってみな同じだもの。
尖りようがない。

でもこれって
安保闘争とか、校内暴力のしょうもない時代とか
そういう時代を通過して
徐々に完成形に近づいてきたってこと?

やっと皆が同じような価値観にハマって
大人しくなってきた…
ってことだとしたら、ちょっと怖いですね。

どうなのでしょうね。
その辺はよく分かりませんし
そんなことばかり考えていると
「陰謀論」みたいな
考えていても何も変わらない
不毛な世界に行ってしまいそうなので
この辺でやめておきましょう。

では、こういうのはどうでしょう?
もちろん「皆が」という前提ではないですが。

好きなことを選んで目標設定して
それを全力でやって
納得いったら卒業しろ
みたいなやり方

成績表とか卒業証書なんて
今どき何の保証にもならないのだから
そもそもお墨付きなんて無くていいじゃん
という感じ。

もちろんその過程では
アドバイスとか評価が重要になるでしょう。

学校の悪いところは
「教える」のだから
それを熟知している教員が必要で
それができる設備がすでに整っていて
全て決められたお作法に従って
「やらせる」必要があるのだ
という構造になっているところだと思います。

それじゃ新しいことはできません。
チャレンジできません。

もちろんそういう学校もあって良いのですが
他の選択肢が無いのですよね。

段位は持ってないけど
異種格闘技戦はムチャクチャ強いぜ!
みたいな人材を育てたら面白いと思います。

基本は大事?

そうですね。
だったら基本を手に入れる方法から入れ替えるってのはどう?

アクティブとパッシブ

アクティブ・セーフティという考え方があります。
自動車の場合、衝突事故を例にとるなら
ぶつからないようにする安全技術です。
例えば、アンチロック・ブレーキ(ABS)とか
スタビリティ・コントロールなど
危険を目前にして、車体が制御不能に陥ることなく
回避動作を取れるようにするものです。

これに対して
パッシブ・セーフティは
事故が起きた瞬間から後の話です。
例えば、シートベルトやエアバッグなど
事故が起きた際に衝撃を緩和したりして人を守るものです。
車体の構造などでも工夫があって
クラッシャブル構造などは
衝突時に車体が変形していくことで
衝撃を吸収・緩和する考え方です。

さてさて
現在の学校での学びは
ほぼ例外いなく「やらせて」いるわけで
これはパッシブ
つまり「受け身」の学びで
これが普通になっています。

そもそも他人にやらされることが学びだ
みたいな価値観はどうなのだ?
とも思いますし
外的な動機で学ぶには限界があります。

自分の立ち位置や興味から
かけ離れた高等な知識を得たところで
それを実践する機会が無いのであれば
それは果たして役に立つ学びと言っていいのか?
とも思いますが
かつてはそういう形で
多くが一定の知識やスキルを持つ
そんなことが重要だった時代があったということです。

もちろん現在も、そういうスタイルが
時と場合によっては
必要で重要なのは変わらないのでしょうけど
受け身でやっている限りは限界があるのも事実。

やらされることなんて
遅かれ早かれ嫌になるものです。

自ら「知りたい」「できるようになりたい」
となれば、本当の学びになって
受け身の限界を突破できるでしょうし
それは社会に出てからも継続されるでしょう。

自ら望むことができたときの感動が大事で
それが継続的な学びの動機になりますから。

そこでアクティブラーニングの登場となるわけです。

が!しかし!

アクティブラーニングを「やらされて」いるとしたら
それは「パッシブ」に他ならないのではないか
と思ってみたり。

まぁ今は過渡期なのでしょうから
仕方ないのでしょうけどね。

何が言いたいかというと
学生達が好きなものを作って
本気で競い合うなんてものこそ
本当のアクティブラーニングだと思いますよ
ということです。