感謝すると幸せになれるのか

そういうの聞いたことありませんか?

例えどのようなことが起きようとも、感謝すれば幸福になれる、と。
もちろん、一般的に「悪いこと」とされることが起きてもです。

なれる!
と断言しましょう。
まぁ、感謝できるか否かは、起きた事象の程度問題かもしれませんが。

これ、理由があります。

ものごとに対して、ポジティブとかネガティブとかの印象を持つのは心の問題です。
気持ち次第、考え方次第です。

例えば、誰かに怒られたとしましょうか。
まぁ、ショックでしょう。

でも、それには原因があるわけで
「あぁ、こういうことすると怒られるんだなぁ」
とか
「へぇ、この人はこういうのが嫌いなんだなぁ」
とか、そういった新しい情報を得たわけで、その知識や経験は未来に活かせるわけですよ。

なので、ちょっと無理矢理っぽいですが、「良い経験しました」と感謝することができるでしょう。

でも、それをダメなことだ、悪いことだと、負の経験として引きずるのも自由です。
あー、自分はダメなんだ、と。
そう思っていたら、感謝なんてできません。

その二つの感情の持ちようのどちらが、次のアクションに有効に働くかは言うまでもないでしょう。

それに、仮に口に出して「良い経験しました。ありがとうございます」なんて言ったとしましょうか。
相手はどう思うでしょうか?

「何言ってんだ!反省してるのか、バカヤロー!」
とか言いますかね?
良い経験として受け止めたなら、同じようなヘマはしないだろうと思うのではないかな。
「次はしっかりやってくれそうだな」と。
私が上司、監督者ならそう思います。

逆に、悲しそうなかををしてうなだれちゃったりした場合、そこからは、やらかしたことをリカバリーしようとするアクションは起きそうもありません。

まだありますよ。

やらかしたにもかかわらず、「おお、新しい発見をしたぞ!」と思っているときの表情
やらかしてしまって、「自分はダメ人間だ」と落ち込んでいるときの表情
はたから見たら、どちらにチャンスをあげたくなるでしょう?
言うまでもないですね。

要は、感謝するってことは、気持ちが前向きになっているわけで、そうでないと未来は明るくならないのですよ。
過ぎたことばかりばかり考えていても、未来は明るくなりません。

言動や、表情一つで環境は変わります。
イケてる雰囲気じゃないのに、イケてる仕事はできません。

この辺の記事も参考になると思います。

教育はどこに行くのか

成長とは現状からの変化です。
何度も言ってますが。

なので、変化を恐れる心では成長は難しい。
これ、当たり前だけどあまり意識されていないことだと思います。

そして、その変化は自らするもの。
他から変化させるのは難しい。
というか、無理と思って良いでしょう。

「教育する」とか言ったところで、どうなるか(現状からどう変化するか)は、全て本人次第です。
ただ、環境や助言などは、きっかけにはなります。

「手強いなぁ」と思うのは、幼少の頃から知識を身に付けることが至上命題で、言われたことをやる、言われて覚える、正解を出す、みたいな事ばかりをやっていると、価値観が強烈に固定化されてしまうことです。

そうなると多くが
言われたことが上手にできる者
いい加減やらされるのはうんざりで、とにかくやりたくない者
となっていくのは当然なのかもしれません。

創造性は必要無くて、言われて動けば良い

そんなの面白くないし、社会に出たら困ったことになるだろうけど、学校ではそうするしかないし、それができれば高評価なのだから、そこから変化する必然が全くありません。

これ、恐らく本人にも意識できていないことで、そうなると理屈では変化が必要だと理解できても、なかなか思うようになりません。
大変気の毒です。

だって、そんなことしてたら出来の悪いAIみたいになっちゃうのは目に見えているでしょうに。
恐らくそんなことは本人も分かっているけど、どうしたら良いのか分からないのでしょうね。
正解が。
そもそも、そんなものありませんけどね。

もちろん一定数は社会に出てから仕事の面白さに気付いたりして、変わっていく者もいるでしょうけど、それにしても、もったいない時間の使い方をしているなぁ、と思ってしまいます。

でもこれ、最近に限ったことでは無くて、結構昔からやり方自体は同じなのですけどね。
何が変わったのかを考えると、遊びの環境とか学び自体とか、色々なものが洗練されて、高性能で高効率になっているのかな?と思ったりします。

それ、良い事じゃん!
と言う話しなのですが、何事にも多面性はあるわけで、得るものがあれば同時に失うものもあるわけで、そういう意味ではメリットしか無い完璧なものなんて存在しないんですよね。

例えば、便利な世の中になって、安価に何でも手に入って、それらの完成度が高かったりすると、自らの手を使って何かを作るセンスとか創造性なんて必要無いわけですよ。
そんなのはプロに任せておけば良いので。

もちろん、道具を使ってモノを作らなければ、面倒は無くなるけれど、同時にスキルやセンスを磨く機会はありませんし、便利な道具が時とし危険な物にもなることも分かりません。

そんな事を考えていると、この先我々はどうなっていくのか大変興味深いなぁ、なんて思うのです。
もちろんそれは他人ごとではありませんので、「どうなっていくか」じゃなくて「どうしていくか」とするべきです。

さて、どうしましょうか。

ヒューズの話

fuse
導火線とか、ミサイルの信管という意味もありますが、一般的には電気回路なんかに入れるヒューズを指しますね。

回路に過大な電流が流れたときに、ヒューズが溶断して回路を遮断します。
それによって、過大な電流から部品を保護したり、回路が焼損したりして火災が発生したりするのを防ぎます。
言ってみれば安全装置です。

こういうのって、あまりにも当たり前すぎて学校では学ばないかもしれませんね。

で、我々メカ屋にもヒューズがあります。
メカニカルヒューズと呼びます。
とはいえ、あまりメジャーではないかもしれません。

システムを構成する要素で、一部意図的に弱くつくっておき、過大な負荷が掛かったときにその部分を壊すという考え方です。
それは、電気と同様に安全のためだったり、またはコストのためだったりします。

レーシングカーが分かりやすい例ですね。
マシンでも何でも良いのですが、やはりタイヤ剥き出しのF1をはじめとするフォーミュラカーが良いでしょう。

ああいったクルマは、いかにも走行中にタイヤがどこかにヒットしそうですよね。
実際、レース中のアクシデントとしてはよくあるのですが。

そんな時、タイヤがサスペンションアームごと外れてしまうでしょう?
あれは、意図的に
タイヤ・ホイール~サスペンション~車体
が繋がっているシステムのうち、サスペンションアームや、その取り付け点の強度が低く作られているのです。

もし、サスペンションアームより車体の強度が弱ければ、クラッシュ時に車体が折れてしまったり、車体にサスペンションアームが突入したりして、ドライバーが怪我をします。

今は、ホイールテザーと呼ばれるケブラー製のコードでホイールが飛んでいかないようになっているのではないかな?
かの天才ドライバー、アイルトン・セナの痛ましい事故が思い出されます。
それが直接原因かどうかは知りませんが、あの頃以降、ホイールテザーが義務付けられたのだと思います。

一般の乗用車にも似たような考え方を見ることができます。
前面衝突時に、乗員がいるキャビンより先にエンジンルームが潰れますよね。
アレはメカニカルヒューズではなく、クラッシャブルゾーンといって、あの部分で衝撃を吸収するのが主な目的ですが、考え方は同様です。
弱い部分を設定しておいて、そこを壊す。

ついでに言っておくと、エンジンとかトランスミッションって凄く丈夫なので、それらが収まっているエンジンルームを潰して衝撃吸収するとは言っても、なかなか難しかったりするのです。
エンジンが衝突の衝撃をキャビンに伝えてしまったら、元も子もありません。

なので、衝突時にはそれらの丈夫な物は、車体下方に潜り込むように変形させるとか、各社工夫しているようです。

さて、このヒューズの考え方を、我々の生活に活かすには…なんて、ちょっt無理矢理すぎますかね。

強い衝撃が掛かったら思考停止?

まぁ、それもアリかもしれませんが、クリティカルな状況ではむしろ思考は高速回転してほしいものです。

なので、いわゆる失敗をしたときの捉え方を変えてみたらどうでしょう?

それはネガティブなものでは無く、未来において有用な経験の一つだと。
もちろんそう考えたところで、驚いたり焦ったりはするでしょうけど、有用なものだと思えば、それほど強力な衝撃にはならないでしょう。

考え方一つです。