相応のやり方

もっと色々知っていればとか、もっと色々できればとか思う事があったり、理想や望みがあったりするけど、なかなか簡単にはいきません。

若くて経験が少なければなおさらで、色々知らなかったり、できなかったり、間違えたりするのだけど、それも含めて必要な経験なのだろうな、なんてことを思うのです。

立場上、学生達には、自分が若いときにもっとこうしておけば良かったと思うことを伝えたりもするのですが、そこに価値を感じて実践してくれるとも限らないし、そもそも言われた事ができたらそれで良いのかって気もします。

というのも、若いなら若いなりに経験しておくべき事があるわけで、若いうちから他人の価値観に乗っかって、他人からもらった「人生のコツ」みたいなことを実践しながら失敗無く生きることが良い事とも思えないのです。そんなのは自分の人生じゃ無いでしょう。
失敗する事も含めて多くの事を経験して欲しい。

人には年齢相応に為すべきことがあるというか、生物として成長過程において相応のやるべきことがあるというか、なんかそういう気がするのです。

とはいえ、先人の経験を全く活かさずに、自身が遭遇する経験に対処するだけでいるってのもどうももったいない気もします。
だってそれじゃぁ、人類進歩しませんもの。

結局、人の生き方にこれといった答えなんか無いので、とにかく色々やってみて、オリジナルの自分の生き方を構成していくってのが良いのでしょうね。
きっとそれが最も満足感が高いやり方なのではないかな。

チャレンジャーにお勧めなのは「最初に高望みしろ」ってことです。
それによって分かる事、得られる事が沢山ありますから。

じゃぁ自分が年齢相応に満足がいく成長ができているかというと、決してそんな事は無いと思っていて、ずーっと不十分で不満足な感覚を引きずっている気がします。
きっと死ぬまでそんな感じなのかもしれません。

満たされることなくグルグルループするのが人生

我々は一体何のために頑張っているのでしょう?
勉強とか仕事とか。

生活水準や環境の向上ですかね。
何度も言っているように、個人的な欲望の追求のためにやっちゃうと、そんなのは他人から見れば価値が無いわけで、結果として行き詰まっちゃうと思います。
なので、やはり他に価値を提供しなければならないわけで、それが仕事の本質でしょう。

まぁ、その辺の細かいことは抜きにして、そんなふうに頑張って、色々良くなったとしましょう。生活環境が向上して、心配事が無くなったとしましょうか。

心配事が無いってことは、解決すべき問題も無いってことで、そういうものが無ければ、何も気に病むことはなくて、満たされて、頑張る必要が無い状態になる?

なるかなぁ。
まぁ、なったとしましょうか。

でも、満たされた状態が日常になると、それは「普通」になっちゃうわけで、「普通な状態」は満たされた状態とは言えなくなる気がしませんか?

だからその先が欲しくなるのかな?

そうなると、人の欲望は際限が無い、なんてのは分かる気がしますね。

仮に「普通な状態」が結構満たされているように感じられて、その現状を維持したいなんて思ったりしたら、ちょっと危険な気がします。

欲望云々は抜きにしても、何もしない状態になっちゃったら、自分は他の役に立っていないわけで、まさに役立たずというか、価値が無くなっちゃいますね。

そんな事を考えていると、お釈迦様は凄いなぁ、なんて思うんですよ。
だってお釈迦様、そもそも王子様ですからね。

何が言いたいのか自分でも良く分からなくなってきましたが、頑張らなくて役に立たない状態ってのはマズイよなぁ、と思うのです。
そんなんなっちゃったら、生きている気がしなくなるというか、為すべきことが無くなったら、人として生きている意味はあるのか?と思うし、そもそも、それで生きていけるのか?

満たされるためにや頑張るのに、満たされたらお終いだから、グルグル頑張り続ける必要があるってことか。

それに対して、「どこまで続くんだよ…」なんて後ろ向きな気持ちでいたら、面白くなくなって我慢比べみたいになっちゃうので、行けるとこまで行ってやろう!みたいな前向きな気持ちが大事なんでしょうね。

それをグルグルループさせて生きていくのだけど、永遠では無い。

と、全く落ちが無い記事でしたが、そのうち落ち着いてこういったことを考える時間を取らないとなぁ、と思っています。

自由って面倒くさいもの

我々年長者は、未来のために若年者の成長に手を貸す必要があります。
色んなアプローチや、色んな関係があるでしょうけど、それは確かでしょう。
だって、そうしないと未来はお先真っ暗になりますから。

教育期間は教育する相手のためにあります。当然です。
この「教育」って一体何でしょう?
「教え」「育む」ですか。そうですね。

それは一体どういうことですか?
「言って」「やらせる」ことですか?
そういうのも当然あるでしょう。

そんなことばかりだと、単に「他人をコントロールしたい」ってことなってるのではないかな?と思うことがあります。良くあります。
学校の先生に限らず、「親心」なんてのはそういうのが多分に含まれているのではないかな、とも思います。

まぁ、若年者をコントロールするというのも、多少は必要かと思いますが、そればかりじゃ未来は困ったことになります。

どういうことかというと、私みたいに大したことがない教員に教育されると、学生は、もっと大したことがない人間になってしまいます。
だって、知ってることを伝えてやらせるのだからそうなるでしょう。
その伝達がうまく行かなければ、成果はどんどん劣化していきます。

そんなの当たり前じゃないかと思うなかれ。
学生達の本来のパフォーマンスは、そんなもんじゃありません。

学校は、単に教え伝える場とは限りません。
彼らにチャンスを与える場であるべきです。
それはもう色んな意味、色んな形の。

気付は20年以上も、ものを作る学生達に付き合ってきたわけですが、彼らが自由の意味を理解して頑張ると、想像以上の力を発揮するのを見てきました。

ただ、近年では、「言われたことをやる」という前提が強固な壁となっている気がしているのです。
それが彼らの本来のパフォーマンスを発揮するのを妨げているように感じます。

言ったことをやらせて学生達をコントロールするという前提であれば、この状況は大変楽チンで良いことです。面倒がありませんから。
でもそれでは、学生が思いもしなかったパフォーマンスを発揮することはありません。

彼らに自由を与えてチャレンジさせたら凄いことになるのは分かっています。
でも、それをやると面倒なんですよね、きっと。双方にとって。

面倒なのをぶち破るなんてのは、単純なことなんだけど、思いのほか難しいんですよ。
だって、我々は面倒が無くなる未来を夢見てきたはずだし。