大きいことからやってみよう まずやってみよう

色々やるのは良いことなんですけどね。
ここでは経験の数とかそういうことではなく、ちょっと違う話をしてみましょう。

我々理系人間に限らず、今どきの教育を受けた人間は、世にあるものごとは、色々なものによって構成されていることを知っています。

工業製品なんかは分かりやすいのですが、分解していくと、最後には最小単位の部品になります。

知識とか理屈の話でいくと、まず最初に最も基礎的な知識とか単位があります。
文字とか単語とか、計算とか元素とか。

では、何か「為したいこと」…例えばレーシングカーを作りたいとか…があったとして、それは最小単位から考えたり構成していくのかと言うと…

この時点ですでに何かおかしいことに気付きますか?

「為したいこと」は最終形態なので、最小単位ではないですよね。当然ながら。
むしろ最大です。
なので、ここで急に最小単位について考えるってのはおかしいのです。
そんなことできるわけありません。

クルマ作りたい!
じゃ、まずボルトの図面描かなきゃ!

おかしいでしょう?

最終形態をどうしたいか?というビジョンというか、理想の側から考えて、構成しないとできないのです。

最終形態を形作るためにはどうしたら良いか?
というのを考えて、そこから徐々に分割していって、最終的に最小単位のものをどうするかが決まる、という順番です。

で、話をちょっと戻します。

文字とか単語とか、計算とか元素とか、そういう小さいことを学んで覚えていったら、最終形態にたどり着くのか?

そんなことは無いって事です。

もちろん基礎的なことは大事です。その後に使うことになる大事な要素なのは間違いない。

でも、そういうのをいつまでも延々とやってたって何も起きません。
いつかはそこから離れて、最終形態に関することをやらないと、大きなものを形作るためにどうしたら良いのかは分からないままです。

良くありがちなのは、「基本からしっかりやっていくんだよ」みたいな感じで、ちょっとずつ難易度を上げていくってのをやったりします。

でも、そんなことやってたら、クルマを作るなんてことになったら、一体どれだけ時間があればいいんだよ!?なんてことになります。
何がどれだけ足りないかなんて分からないままです。

そう、ある程度基本的なことをやったら、最終的にやりたいことをやってみたら良いのですよ。何が違うのか、何がどれだけ足りないか分かるから。
そうしたら、その後にやるべきことが決まるので、あとはやるだけ。
自分に足りないものがどうしても欲しければ、頑張って手に入れれば良い。
やってみたら分かるよ、ってこういうことでもありますね。

ただ、この方法でやると「あ、これじゃダメだ」って分かるわけで、それは一般的な価値観でいくと「失敗」と呼ばれます。

それに対して前述の「基本からしっかりやっていくんだよ」みたいなやり方は、いわゆる失敗は最小になります。
でも、何が違うのか、何が足りないのかは、ずっと分からないままです。
なので、最終形態を形作ることはできなくて、言われたことをやるしかなくなるのも分かります。

そういうことなんですよ。

不立文字

禅の教えに「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があります。
文字で全ては伝えられない
というような意味ですね。

これに対して昨今では、「文字になっているものばかり信用する」のような風潮がある気がしてなりません。
加えて言うなら、形になっているものしか信用されないような風潮も感じられます。

やってみなけりゃ分からない

これが軽視されているというか、ほとんど無視されてる気がします。

やってみなけりゃ分からないことを、やらなくても分かるようにするのがテクノロジーだったりするのかもしれませんが、それには限界があります。

だって、新しいことをやったら、それによってまた新しいことが起きるのですから当然でしょう。
やらなくても分かっていることは古いことです。

なので、ここから先は考えても分からない「やってみなけりゃ分からない」が必ず出現します。

それに、そもそも「やってみよう!」と思う気持ちが無ければ何も始まらないのですが、それは文字や形になりません。字面だけでは伝わりませんから。でも、とても大事なことです。

せっかく学校で学んでも、「知る」ばかりで「やる」経験がないなんてことが起きているとしたら、それは残念なことです。

文字にできない「やらないと分からないこと」が沢山手に入ったら、それはそれは強力な、一生使える武器になることでしょう。

ネット社会の功罪

最近は世の中がザワザワしていますね。
それはもう色んなネタで。

これ、困ったものです。
それはもう色んな意味で。

環境やエネルギーの問題やら、国際的な問題やら、国内のスキャンダルやら…
それはもうニュースのネタには事欠かない毎日が続いています。
というか、日々拡大して加速している感すらあります。

そういうの、できるだけ気にしないようにしたいのです。

将来の動向などは、ある程度見えている必要があるでしょうけど、このザワザワネタのほとんどは雑音です。
気にしても自分にはどうにもできないこと、気にしても自分には関係ないことがほとんどです。
でも、こういったネガティブな情報は、人の心をいとも簡単に掴みます。そして集中力が削がれます。ネガティブなものに目が行ってしまうのは、ほとんど本能的なものだから、それはもう強力です。

そんなの見なけりゃいいじゃん、って話なのでしょうけど、インターネットを使っている以上、どうしても目に入るでしょう。そんな構造になっていますものね。

TVのように受動的ではなく、自ら進んでクリックしまくって、次から次へと能動的に情報を漁る状態になりますね。
これ、凄いことだなぁ、と思います。

こういうところで能動的に労力を使いまくると、自発性って枯渇するんでしょうかね。
変なところで脳内麻薬が出まくって、おかしな条件反射や習慣が身に付いているかもしれません。
少なくとも、情報過多が良いとは思えません。必ず何かを失っているはずです。
それが自分に必要無い情報なら、なおさらです。
こういうのは凄く興味あるところです。

ひょっとしたら、それを踏まえた上で工夫すると、何か面白いことができるかもしれませんね。
これは今後の課題の一つにしましょう。

今、一番欲しているのは、とても静かな場所で色々考える時間を作ることです。もしくは何も考えないこと。
瞑想でもやってみますかね。

これ、ひょっとしたら世界的に多くの人が感じていることなのかもな、という気もしています。