本当はみんな凄いはず

学生達、本当は皆凄い力を持っているんですよ。
みんなですよ。

正確には、凄い力を発揮するポテンシャルを持っている
と言った方が良いかな。

ただし、それがどんな力なのかは
本人すら分からない。
もちろん
親にも先生にも分かりません。

なんで十分にパフォーマンスを発揮できないかというと
志向とか特性とか成長具合とか
人それぞれなのに
それを一緒くたにして
同じようなことをやらせて
その状態で評価しようとするからじゃないかと思います。

まんべんなく色々できる者には良いかもしれませんが
ピンポイントで力を発揮するタイプはお呼びじゃない感じですね。
そういうタイプは決して評価されない。

で、総合的に
あるボーダーを超えていないとお先真っ暗
みたいな脅しを掛けて
「こいつはできない」
ということにする。

それによって
「自分はできない」
と思い込む。

できないと思い込むことにも特典があって
やらなくて済むんですね。
「だってできないんだもん」
ということで。

本当は、言われたことをやるのに
嫌気がさしていたりするだけなんだけど
それによって潜在的なポテンシャルを
発揮するチャンスも無くなったりして。

得意な領域は人それぞれだし
知的好奇心を持つタイミングだって違うし
それによって、やる気が発動されるタイミングだって違う。

確かに、高度経済成長期のようなときは
皆が同じようにできないと大量生産できませんから
そのための人材を大量生産する必要があったでしょう。

でも、今も基本的には変わりませんね。
英語をやらせる学年を下げたり
プログラミングやらせたりしているようですが
皆を同じようにやらせて評価する
という基本的な構造は変わりません。

もちろん、そういうのも必要なのかもしれませんが
全員に必要なわけでもないでしょう。

会社組織に限らず
世の中は、皆が得意なことを提供して
補完し合っているんだし
製品開発なんかだと
色んな種類のぶち抜けたものを持った人達が必要です。

皆と同じように同じことをやりたい
と思う者が
他とは異なる面白いものを
作れるはずがないでしょう。

それに
学力が高くて意欲が低い人間と
意欲が高くて学力が低い人間
どちらが社会に出てから伸びるか
そんなことは考えるまでもありません。
両方持っていればそれに越したことはないでしょうけど
皆がそんなに都合の良い状態にはなりません。

何か得意なことや好きなことを
とことん追求していくのを
もっともっと評価することができると
世の中面白くなると思います。

社会の構造を考えると
学校は簡単に路線変更できないでしょう。
なので夢工房は
ぶち抜けたい学生を応援します。

仕事の価値と「ありがとう」

仕事は価値を他に提供するわけで
それを受け取ってくれるのは
ありがたいことです。

で、受け取ってくれた方も
「ありがとう」なら
双方ハッピーとなります。

相互に感謝できるのが
良いビジネスですね。

価値を提供された側は
ありがとう
と言われれば
それは気持ちが良いでしょうし

提供した方は
ありがとう
と言われれば
「よーし!次も頑張っちゃうぞ!」
となるでしょう。
(これ、超重要!)

なので
ありがとう
は、提供する側も
される側も
双方が言えれば
世の中ハッピーになりますよ。

ありがとう

ありがたい(有り難い)

その語源は

有ることが難しい
珍しいこと
めったにないとこ

自分にとって得難いものが得られたよ!
といった感じですね。
価値を認める
感謝の言葉です。

サービスを提供してくれた相手に言えば
「あなたには価値があるよ」
ってことになりますね。
価値を認められるというのは嬉しいことです。

ところが
ありがとう
は、代金を受け取る側が言うことだ
なんて風潮はありませんか?

先進国に限らず
大抵の国では
お客さんだって会計後に
ありがとう
って言ってますよ。

こんなに言わないのは日本くらい?

店員さんが
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
って言っているのに
終始無言で店に入って出て行く。

そんなこと無いなら良いのですが。

たとえこちらが代金を支払うとしても
サービスを受けたら
ありがとう
で良いんじゃないでしょうか。

そうしたら相手だって
気持ち良く次の仕事ができますよね。
( 何度も言いますが、これ、超重要! )

それぞれの
ありがとう
の一言が
次へ次へと良い仕事を繋いでいく
そんな風になると良いですよね。

世の中便利になると
何でもそこら中にあるもんで
「有り難いもの」
が少なくなって
感謝する必要が無くなっている?

価値のインフレ?

だとしたら
便利な世の中ってのも寂しいものですね。
縮小するのも必然です。

と、こんなことを言うのも
あるとき気付いたんですよ。

「あれ?ありがとうって言ってないぞ」
って。

もちろん今では言ってますよ。
コンビニだろうがスーパーだろうが。

こんなのは小さなことかもしれませんが
ちょっぴり世の中を良くできると思うのです。

日本は先進諸国の中でも生産性が低いとか言われますが
同時に寄付行為も少ないのです。

ひょっとして、他に対する価値の提供や
それを受け取った側からの感謝(これも価値)が
うまく回っていないということではないでしょうか。

生産性向上や労働時間短縮なんかも結構ですが
その前にやれることはあります。

サービスだって製品だって
我々の心から発しているものだということをお忘れ無く。

托鉢の話

托鉢(たくはつ)とは
お坊さんがお椀を持って
食料やお金を乞うて歩く
という仏教の修行なのですが
すっかり見なくなったというか
そもそも日本で、しかも関東では
ほとんど見かけることはありません。

この托鉢
お金持ちのところへ行くのではなく
貧しい人々の家を回るんだそうです。

というのも
これはお坊さんがお金を得るためにやることではなく
貧しい人の救済になるからなのです。

貧しいのにお金あげちゃったら
もっと貧しくなるじゃん!
とお思いですか。

貧しいには理由があって
他への施しをしないから貧しいのだ
ということだそうです。

これ、お金で考えると納得がいかないかもしれませんが
他に価値を提供しないから
その見返り(対価)が帰ってこない
そう考えると分かりやすいかもしれませんね。

もっともな話です。

まあ、一口に貧しいとは言っても
色々事情はあるでしょうから
一括りにはできないと思いますが。

なので托鉢に喜捨(喜んで「あげる」ということ)をするなら
お坊さんではなく、喜捨した方が
「ありがとうございます」
なのですよ。
チャンスをもらっているようなものですからね。

この托鉢はとても分かりやすい例なのですが
他に与えることができなければ
自分には何も返ってこない
ということを言いたかったのです。

仕事に当てはめて考えてみると…
その通りでしょう?

もっとも
最初から見返りを求めた提供だと
それこそ価値は半減するでしょうし
見返りは最低限になると思いますが。

「(仕方なく)仕事してやってんだ」
とか
「金払ってんだから提供してもらうのは当然だ」
みたいな考え方だと
自身の喜びも
相手の喜びも
最低限ですよね。

なので
喜んで価値を提供していきましょうよ
と言いたいのです。

喜んで価値を提供して
相手に喜んでもらいましょう。

そうしたら自分もハッピーになりますよ。
自己満足で終わるのではなく
相手が喜んでくれるのが一番ハッピーです。

エンジニアの仕事だって
本来そうあるべきだと思うんです。
お客さんを喜ばせてナンボですよ。

なので
大学でもそういう心を育めたらいいよね
と思っています。
知識やスキルは
それを実践するためのツールです。

受け取ることを望むばかり
入ってきたものをため込む
他のためのことをやろうとしない

そんなのが当たり前だとしたら
寂しい世の中で
色んな意味で貧しくなるのは当然です。

と、貧しい教員が偉そうなことを言ってみました。