自分のせいにしてしまえ 2

これの続編です。

学生と付き合っていて
気になる言葉があるのです。

「自分はこう思う」

「自分の中では…」

「今の自分はこうだ」

「…な自分がいる」

そんな言い方してませんか?

誰がそういう言い回しを始めたのか
なぜ流行っているのか
そんなことは知りません。

これらの言い回しは
まるで自分を他人のように扱っています。

これ、視座が自分から離れていて
客観的に捉えられているので
一見良さそうですが
自分のことを他人ごとにしちゃっているので
そこに問題があっても
自力で解決できなくしちゃってる
そんな気がするのです。

こんなの単なる流行だよ
と言えばそれまで…
ってことはないのではないかな。

だって、言っていることと当人の気持ちが
大きく離れているってことは無いと思うのですよ。

他人ごとのことのように言うなら
それは他人ごとにしたいのでしょう。
自分が手を打たなくても良いように。

それに、自分が発した言葉は
必ず相手に向けられます。

なので、相手はその言葉から
発した本人のことを判断します。

こんな人ごとみたいな表現で何かを訴えられても
本人が何とかしようとしている
とは思えませんので
何ともならない気しかしません。

なので、どうしたら良いかというと…

ちゃんと自分のせいにしろ

ってことです。

自分のせいなら
自分で解決できますから。

責任から逃れてしまったら
自分の力が及ばないので
ずっとそいつと付き合っていかなければなりません。

でも
「自分のせい」
を悲観的に捉えてはいけません。
自分でコントロールできるのだ
と考えましょう。

悲観的に考えていることなんて
解決できませんから。

「たかが言葉だ」
と侮ってはいけません。

ユダヤ教の聖典タルムードにはこうあります。
マザー・テレサの言葉の原典はこれですね)

自分の言葉に注意すること。それは自分の行為となるから。

自分の行為に注意すること。それは自分の習慣となるから。

自分の習慣に注意すること。それは自分の性質となるから。

自分の性質に注意すること。それは自分の運命となるから。

言葉を自分の思考や行動と切り離すことはできません。
それはいつか結果となって現れるのは当然です。

今回も偉そうなことを言っていますが
もちろんこれは
自分自身への戒めだったりもするのですけどね。

それぞれの時代の生き方

凄いタイトル付けちゃいましたが
別にたいそうなことを言うつもりはないのです。

便利な世の中は楽ちんで快適です。

若い世代は今の世の中が当たり前で
どうってことないでしょうけど
10年単位くらいで遡って昔を思い出すと
凄い世の中になったもんだと思います。

私が子供の頃を思い返すと…

山道に行けば
オーバーヒートしたクルマがボンネット開けて停まってたり
冬はエンジン掛からなくて難儀したり

電話は固定電話が家に一台で
女の子の家に電話するのに一々ドキドキしたり

テレビは真空管が入った白黒で
たまに壊れて電気屋さんが修理に来たり

家の電気はブレーカーじゃなくて
でっかいヒューズで
もちろん飛んだら交換

ゴミは庭でガンガン燃やしてて
飛び火でボヤや火事になったり

野良犬の群れに追いかけられたり
逆襲したり仲良くなったり

よく分からない怖いおっさんに説教されたり
何かおごってもらったり

ここに書けないような
悪いことや危ないことを
悪気もなく危ないことにも気付かず
平気でやってたり

今思うと
不便とか
小さい危険とか
そんなのが周囲に沢山ありました。

もちろん私より前の世代の方の比ではないと思いますが。

そんな昔と今とを比べてみれば
隔世の感があるってこういうことなのか
と改めて感じるわけです。

でも、そんな昔は昔で良かったのかな
とも思いますよ。

色々不便で危険だから
相応の工夫が必要だったり
バカなことをやるから分かることがあったり
今なら何てことないことに感動したり

考え方やらスキルやら
感性なんかも
そういうところから得られるものです。

面倒とか困難とか
そういうことがなくて
平坦な毎日からは何も得られないでしょうね。

とは言うものの!

では、今の世の中は未来に対してダメなのか
というと
未来から見たら「今」は
不便で原始的なのかもしれません。

昔の人が
皆、苦労を重ねて
相応のものを得ているのか?
というと
決してそんなことはなかったりするでしょうしね。

どの時代も、その瞬間が最先端なわけで
いつも年長者に
「昔はなぁ、今と違って…」
と言われ続けているのです。

結局は、それぞれの時代で
どれだけジタバタやったかによって
得られるものが決まってくる
そういうことなんじゃないでしょうか。

どんな世の中だろうと
一所懸命やったら良いと思います。

嫌なことや大変なこともあるでしょうけど
前向きにやっていれば
そのうち良いこともあって
終いにはプラスマイナスゼロ
ってなもんじゃないかな
と思っています。

物差しをひっくり返せ

学校でいうところの
できるヤツ

できないヤツ

これは勉学の成績についてですね。

授業においては
この物差し上で評価されますが
皆さんご承知の通り
人の価値とはそういった
単純な物差しだけでは測れません。

…ということは分かっていても
どうしてもそういった尺度で
判断してしまいがちではないですか?
もちろんそうでなければ良いのですが。
どうなんでしょうね?

社会で活躍されている方なら分かっていると思います。

勉強ができる・できないと
仕事ができる・できないは
あまり関係ないよね
って。
全く関係ないとまでは言いませんが
イコールではないでしょう。

研究者としてなら重要なのかもしれませんけど
ひょっとすると開発系の仕事では顕著かもしれません。
業務内容にもよるかもしれませんが。

夢工房での学生の活動を見ていると
よーく分かります。

言われたことができたり
たくさんものを覚えられるのと

創造性を発揮したり
チャレンジできるのは別のことです。

そもそも出来が良くて
あまり失敗の経験の無い者は
打たれ弱くてチャレンジできなかったり。

言われたことをするのが得意な者は
言われてもいないことを自発的にやるのが
苦手だったりすることがあります。

そもそもやる気が起きなくて
やるべき事ができないのはこの際論外なのですが。

何が言いたいかというと

万能な人なんてそうそういないわけで
なにも人と同じことを同じようにやらなくていいのだ
と気付けば
何かしら力を発揮できる部分が
見えてくるものなんですよね。

神様は、うまいこと
そういう「隙」を作ってくれている。

そういうのに気付いた学生は強いです。
一般的な、できる・できない
の物差しを、ひっくり返したりします。

さらに言うなら
多くがそういうことに気付いて
皆で補完しながらチーム力を上げられることに気付けば
皆で凄い成長をするでしょうね。

学校って、本来は
もっともっと学生達のポテンシャルを
引き出せるはずだと思います。

ま、夢工房はそういったことはお構いなしで
変わり続けますけどね。