正しいって何だ?

「何を測定するかが行動に影響する。
正しいものを測定しなければ、正しいことは行われない」

元世界銀行のエコノミスト
ジョゼフ・スティグリッツという人が
こんなことを言ったそうです。

ふむふむ、なるほど。

何かアレですね
「観測が結果に影響を与える」
ってヤツでしたっけ
量子力学の観測者効果ってのに似てますね。
いや、違うのか(笑)

量子力学、興味がある人は
調べてみると面白いかもしれません。
一見トンデモ理論のようですが
ちゃんとしたサイエンスです。

ま、それはそれとして

冒頭の言葉はもっともなのですが
正しさとは一体何だ
というのがそもそも難しいところかと。

正しいとか間違っているとか
科学的なことならともかく
多くは主観的な価値観によるもの
である場合が多いですよね。
というか、それがほとんど。

分かりやすいところで言うと
「テロリスト」
と呼ばれる人達がいますが

何も彼らは
「世界を地獄に叩き込んでやろう!」
なんてこれっぽっちも思っていなくて

むしろ自分達の価値観にのっとって
正しいと信じていることを
命がけでやっているわけですよ。

対立する価値観を持つ者からすれば
とんでもない悪党
ってことになるかもしれませんが
それは双方とも思っていること。

理屈はそういうことですね。

で、ですよ

「正しい」
を考える上で大事なのは
その対象の集団の範囲ってことなんでしょうね。

ビジネスとか
物質的な欲得ベースの
短期的な価値観では
必ず争いが起きるので

結局は
「多くにとって共通の価値があって、かつ持続可能なもの」
という感じになるのかな。

そういうのを共有して
うまいことやっていこうぜ
ということになるのでしょうけど…

いやぁ、こりゃ難しいですね。

聞くところによると
環境の厳しい国で争いが多いのは
少ないリソースを奪い合うことによって
生き残る必要が生じてしまうためだそうです。

水とか油とか鉱物とかですね。
それこそ住みやすい土地なんかも該当するでしょう。

日本の場合、自然災害が多いとはいうものの
自然が豊かなので
命をかけた奪い合いとかは
あまり発生しないわけですね。

で、そんなふうに
色んな基本的な条件が異なるところに住む者が
共通で持てる正しさって何だろうな。

なんてことを考えてました。

日本は日本で、持つべき正しさってあるわけで
それが道徳ってことなのでしょうね。
皆が気持ちよく生きられるように
って。

今すべきことができていたかな?

コロナ禍が収まったら忘れちゃいそうなことは
今残しておかないとね。

と思ったので、ダラダラ書いてみます。

自粛の環境で起きること
これがメインに展開しましょう。

まずは、孤立する傾向になりますね。
オンラインで繋がる
といっても限界はあるし
フェイス・トゥー・フェイスとは違う。

オンラインでも言語は伝えられるし
表情もある程度は伝わるかもしれないけど
リアルなコミュニケーションに比べれば
伝達される情報量はかなり貧困になる。

よって、コミュニケーションスキルは低下するはず。

ただし、考えている人
特に自分を客観的に見られる人は
オンラインでのコミュニケーションスキルを
上げられているとは思う。

でも、限界はある。

学校などは特に周囲との繋がりが弱くなっている。
同年代はもちろん
上下関係も。

学校では、仕事上の繋がりのように
コミュニケーションを取る責務もないし。

そんな環境でどうなるかというと
集団、チームの力を利用できないので
やること、できることが小さくなる。

中にはうまいことやっている人もいるだろうけど
それはごく一部。

多くは小さいことをやる。
そこにも楽しみは見出せるだろうし
深掘りすればやり甲斐もあるかもしれない。

でも、一度小さくしてしまったら
大きくするのは難しい。

学校では、授業ばかりが学びだと思いがちだけど
実はそんなことはなくて
学年の上下が相互にやりとりする中での学びって結構ある。
特に人間関係から来るもの。
それは無くなる。

人が持つ悩みなんて
大抵は人間関係から来るものなので
関係する人の数が減れば
そういうのも減るわけで
悩みは減るだろうけど
解決する能力も減るということになる。

でも、悩みが減るってのは
結構ハッピーなことなので
一度そうなってしまうと
なかなか抜け出せない。

リアルがなくなる
というのは言い過ぎだろうけど
色々なことができなくなっているのは事実で
特に高いスキルなどの面倒を伴うアクティブなことは
今後は縮小するかもしれない。

一度やめてしまったものは
そう簡単には戻らない
というか
元通りにはならない。

ざっと思い付くままに書いてみましたが
実のところ
なるようにしかならんだろう
とも思っていたり

問題や心配な状態はあるかもしれないけど
揺り返しみたいなことが起きて
大きく反対側に触れて
一気に何かが開ける
みたいなことになるかもしれない

とも思っています。

夢工房としましては…

まぁ、やるべきことは継続できているし
頑張っている連中は
ここにダラダラ書いてきた懸案に
対処できるような経験ができている
のではないかな?
とも思っています。

まぁ、どうなるかは
蓋を開けてもお楽しみ。

変われる者と変われない者 心配君は変われるか

学ぶために学校に行く
というのは
現状から変わるためである
と思っているので

人は変われるのか
ってのは大いに興味があるところ。
何度もネタにしてますけどね。

分かりやすいところで言うと
悲観的な人っているでしょう。
そういうケースで話をしましょうか。

悲観的と言っても色々あるでしょうけど
例えば
これから起きることに対して
良くないことを予測して
それを回避するような行動を取る
そんなことが行動原理になりがちの人
いますよね。
心配性の人。

たとえば
何かにチャレンジするというのは
何が起きるか分からないところで
リスクを取って新しいものを掴む
ということですが

悲観的な人は
未来予測が悲観的な方に向いているので
リスク回避にも
それなりの力を注ぐことになります。

そもそも向いている方向が違う
ってのもありますが
まるで逆方向に自らのパワーを
分散して投入することになりますので
そりゃうまくいかんだろう
ということになりがちです。

逆方向で分散か。
人の持っているリソースは有限なのに
そりゃぁ大変だよなぁ
と思います。

さらに、危険回避というのは
もちろん自分に対する危険の回避で
守りの行動が中心ということです。

守りの行動では
周囲に安全な領域を作って
そこを固めて
危険な対象にフォーカスします。
体も心も硬くなって視野が狭くなる。

チャレンジするなら
視野を広くして
色々なことに対応できる状態にして
フレキシブルに動く必要があります。

ここまで言っておいて何ですが
危険回避が行動原理の人が
ダメだというつもりはありません。
そういう人は安全回路みたいな役割があるわけで
世の中チャレンジャーばかりだったら
カオスな状態になっちゃうかもしれませんからね。

ただ、自らの役回りを変えたいなら
つまり
行動原理をを変えたくて
性格とか考え方を変えられるのか
というのが大変興味があるところ。

もちろんそういうのって
人にもよるのでしょうけど
自分の行動原理を変えたいって
切望するケースも少なからずありますよね。

そういうのって
本能的なところに根ざしているのもあるでしょうし
習慣や環境による影響もあるでしょうし
簡単な話ではないのかもしれません。

でも、決して不可能ではないとは思います。

だって、人なんて生まれてから
ずっと変わらないわけではなくて
いわゆる有能な人だって
過去にはうまくいかない経験が
山ほどあったりするわけで

性格だって同様で
一見明るい人だって
過去にはそうでもなかった時期があったりします。

そんなもんです。
で、どうしましょうか?
って話です。

こんなことも
ずっと考えているネタの一つです。
これ、もうしばらく考えてみます。