人は見たいものしか見えない 2

以前こんな記事を書きましたが
続編です。

視野が狭まっている状態というのは
好き好んでそうしているわけでもなかったりします。

大抵は、何か原因があるはず。

多くのケースに共通してみられるのは
「最低限にしたい」という意識じゃないのかな
と思っています。
ほぼ間違いない気もしますが。

これ、「やらされる意識」に基づいていますね。

「面倒くさい」
が潜んでいたり

言われたことをやる
という行動原理が原点にあったり。

「最低限にしたい」という思いの根源は
大抵ソイツらです。

いわゆる一般的に言うところの
真面目とか不真面目
というのは関係ありません。

でも、皮肉なことにソイツに身を任せると
もっと面倒なことが起こります。

どんどん選択肢が無くなっていって
最終的には
どちらも取りたくないけど
どちらかを選ばざるを得ない
いわゆる究極の選択を迫られます。

まぁ、そうなっちゃったらなったで
仕方ないのですけどね。

結局、「自分」が発動していたら
そんなことにはならないのでしょうけど

皮肉なことに
自分の心が発動していない者は
発動していないことが分からないのですね。

なので言っても通じません。
あぁ残念。

何が言いたいかというと
意外とみんな、自分の人生を生きていないんじゃないか
ってことなんです。

というのも
冒頭に言った
「視野が狭い」
というのも
自分で意識してやっていることではないわけで
自然とそうなっちゃっている
というか
自然にそうなるようになってしまった
というべきかな。

意識せずに
気付いたらそうなっちゃったわけで
自分で選んだ結果じゃないでしょう?

本当は
そういうのをどうするかというのは
自分の意思で決めて、行動して良いわけです。
でも、そうはなっていなかったりするでしょう。

成長過程における環境とか
そういうものによって
受動的に形づくられてしまったわけで
自分で考えて決めたわけじゃないのだから
自分の人生じゃない
そんな気がするのです。

こういう理屈が合っているとか間違っているとかはともかく
みんな、もっと自由に考えて行動していいはずですよね。

以前にも書きましたが、自由はFreedomではありません。

「自らに由る(よる)」が自由です。

不自由な状態を真面目とは思いたくないですね。

「思い」を成長させるには

知識とかスキルとか情報が大事だとか
それはそうかもしれないけど

それをハンドリングする熱意こそが大事

でも、それらを支えているのは何か?
というところが重要なのだろうけど

それは一体何に根ざしているのか?
動機となるのは何なのだ?
そんなことをしょっちゅう考えています。

欲はあっていいけど私欲だけではダメ
何かあったら簡単に諦められるから。

理屈は大事だけど
それだけじゃ前に進めない。
理屈だけは動機には不十分だから。

何度も記事にしていますが
思いを
心を
大事にして成長させているか
ってのが大事なところなのでしょう。
やはりパッションですよね。

でも、考えていても思っていても
それだけじゃ何も起きないのです。

何かしらの行動が動機に結びついていったり
行動によって分かることが思いを支えたり増幅したりする
そんなこともあると思います。

なので
「思い」は「行動」とで両輪をなす
って感じでしょう。

どちらか一方ではダメなんですね。

吾輩の辞書に失敗という文字はない

偉そう、かつ凄いタイトルです。

でも、偉くも凄くもないのです。

どういうことかというと
ちょっとものの見方を変えて
ポジティブに行きましょうよ
というのを
記憶に残りやすいフレーズにしてみただけなのですが
ちょっとやり過ぎですかね。

さて、説明しましょう。

人間、何かしらチャレンジをすれば
必ず失敗を経験します。

でも
人生無駄な経験はない
と言うじゃないですか。

失敗を乗り越える
というのは
成長とイコールなので
決して無駄ではないのです。

それに
しょうもない失敗だって
いつか役に立つ時が来ます。

一見、とても役に立ちそうもない経験や
一般的に言う、ひどい経験だって
誰かを助けるために役立ったり
一見自分に
反面教師的な利用方法だってあります。

実際のところ
そうはいうものの
やらかせば落ち込むことだってるでしょうし
致命的な失敗だって経験するかもしれません。
一見、自分に非がないのにひどい目に合うとか。

でも、それらに対して
ネガティブな見方をしていると
再利用は困難です。

直視できなければ
利用方法は分かりませんから
原因と起きた事象を把握したら

「よし、次はこうしよう!」

でOKです。

これで失敗は次のチャレンジに向けた
スプリングボードに変換完了です。

ほら、失敗なんてなくなっちゃうでしょう?