どこに向かって進むのか

皆がやっているから自分も…
今のトレンドは…

とやっていけば安心のような気がします。
流れに乗らなきゃ…と思ったり。
はたまた、誰かにせっつかれたりもするかもしれません。
「それでいいの?」
とか
「アレ、やらないの?」
とか。

最近で言えば
やはりIT系で、特にAIとかですかね。

そういうのが好きでのめり込んでいるなら良いと思うのですよ。
好きで楽しくて一所懸命やっているなら
きっとうまくいくのではないかな。

でも、好きでもないのに
新しい世界に手を出したところで
うまく行かないと思うのですよ。

だって、好きでもないことをやってみたところで
どうせアイデア出ないでしょう。

まぁ、最低限のさわりだけでも
やってみれば良い経験にはなるし
やってるうちに楽しくなるかもしれませんので
それはそれで良いと思うのですが。

何が言いたいかというと
ヘタに他に迎合するよりも
ことによっては逆方向に行ってみても
イノベーションになったり
大きな価値を生み出せるのかもしれない
とも思ったりするのです。

過去の中に価値を見出せるなら
それに磨きを掛けて独自性と価値を創り出せるなら
それも良いのではないかと思うし

古いことと新しいことを融合させるとか
古いことを今までとは異なるフィールドに適合させるとか。

でも、それは自分が大好きなことじゃないと
難しいでしょうけど。

何かしらチャレンジするのであれば
古かろうが新しかろうが
どっちの方向に行ったって
いずれにせよリスクはあるわけで

新しい方にはリスクは少ない
みたいな勘違いをされがちだと思いますが

新たなトレンドが出現したときなんてのは
皆が一斉にそこに向かうので
過当競争になりやすいわけですよね。

まぁ、そこで競争しても良いのですが
他から提示されたものに
考え無しで便乗するはどうかなと思うのです。

他人が作ってくれたフレッシュな土俵なら安心
と思ったりするかもしれないけど
それは大間違いで

そんなの、その土俵を作った人に敵うわけないですから。

新しいものが出現したときに
なにも進んで他人の土俵に乗る必要はなくて

「俺達ならこうする」と
ギューっと内側に向いて
価値になるまで
独自性を凝縮していく
そういうのもアリではないかな
と思うこともあるのです。

とはいえ
選んだ方向性に対する冷静で客観的な判断とか
戦略が必要だったりするとは思いますが

考えてチャレンジしてみれば
結果がどう転んだところで
良い勉強になります。絶対。

と、その辺が一番重要なところでしょうね。


「思い」を伝える重要性

唯物主義の影響か?
学力偏重の影響か?
理由は良く分からりませんが
最近はコミュニケーション能力が云々など良く耳にしますね。

まぁ、言ったり聞いたり(と、その理解など)
という能力ということですが
そういうのは経験しないとレベルは上がりませんよね。

そういう私も大したことはなくて
まだまだ経験が足りないと自覚しているのですが
そんな私でも気付けることがありましたのでネタにします。

コミュニケーションを構成する
「言う」方のアウトプットは
「良く考えた末の結論を伝える」
そんなものだ
というふうになってきている気がします。

というか
一般的にはそれが当然と思われているかもしれませんし
あながち間違いではないのでしょうが
どうやらそこが落とし穴ではないかと思うのです。

皆さん、子供の頃に言われませんでしたか?
「良く考えてから言いなさい!」って。

私は比較的、考え無しに行動するタイプだったので
恐らく結構な頻度で色んな人にそういうことを言われたはずです。
世代が世代なので、それが原因で
しょっちゅう親や先生に殴られていた気もします。
あまり覚えてはいませんが。
それは、嫌なことはすぐ忘れるたちだからとか
単に脳ミソのメモリーリソースが貧困なことが理由なのであって
決してパンチドランカーではないと信じています。

さて
おかしなことを言わないように
(おかしなことを言って失敗しないように)
前もって良く考えなさい
ってことですが

それをやっちゃうと
どういうことになるかというと

アウトプットは
「良く考えた末の正解に限る」
みたいなことになっちゃって
正解じゃないことは言えなくなるので

「正解」に拘ればこだわるほど
アウトプットの質を磨く機会が減少して
うまくいかなくなる
なんてことにもなりかねません。

で、ここからが大事なのですが
深刻だと思うのは
考える以前の
「思い」
なんてそもそも口に出せなくなるわけです。
これは大問題です。

ヘタをすると
「思い」自体が意識の底の方へ押しやられて
表へ出てこられなくなりはしないでしょうか。

そうなってしまうと
「今の思いを言って欲しい」
と言われても、何も出てこない
なんてことにはなりはしないでしょうか。

「思い」を聞きたいのに
「考え」を答えようとしたりして
そうなったらもちろん
正解を考えつかなければ何も言えない

そうなってしまったら
コミュニケーションもへったくれもありません。

最近では「思い」よりも
理論とか考えとか
定型的なものを重視するように
なっているのだと思うのですが

そもそも定型的なものは
「思い」を実現するためにあるのだと思うわけで
「思い」も無いのに定型的なものを構築していくなんてのは
まさに本末転倒なのではないでしょうか。

「思い」には正解も不正解も無いから
失敗したり不都合なことも
時には起きるでしょうけど
そういう経験こそが自身を磨くチャンスなわけで
それに
自分の思いを伝えられないということになったら…

人は一人では生きていけないし
人は理屈だけでは動きませんから
他者と協力して仕事をするなんてのは難しくなるでしょうし
一体何のために何をすればいいのか分からなくなるでしょう。

「思い」をアウトプットする

最初は難しいかもしれなくて
勇気が要るかもしれません。

でも、それをやらなければ何も叶いません。

自発性がカギ

今日、学生と話していて
ああ、そりゃそうだよなぁ
と再認識したことです。

高い目標を達成したいなら…
別に高くなくてもいいのだけど
やはり自発性がカギなんだよな
と。

何かを「やる」ことにおいては
最終的にたどり着きたいゴールがあるでしょう。

それが、本当に自分が望むことなのか

はたまた
外発性
つまり外部から言われたことなのか

それらのどちらが行動の原動力になっているのか
これが結果を大きく左右するのですね。

というのも
自ら望むことであれば
その理想を達成するために
できる限りのことをしたい
と思って行動するでしょう。

これについては多くを語る必要は無いでしょう。
その調子でやり続ければうまくいくから。

方や外発的な動機だったりすると
やるにしても「仕方なく」やるでしょう。
ヘタすると、そういうのにも慣れちゃって
何も考えずにやるかもしれない。

いずれにせよ、その結果は最低限になる。
だって、プラスアルファする必要は無いし
他から課された負荷であれば
できればやりたくないわけだし。

それに、自分発では無く
渋々だったりすると
何がマズイかというと

負荷とか困難に対して
「自分のせいじゃない」
って思いがちってことですね。
まぁ、外発的なら当然なのですが。

「自分のせいじゃない」のであれば
自分を変える必要は無いのです。

この「変える」というのは
現状の自分から
できる自分に変化する
ということです。
それが必要無いわけです。

というわけで

自分のせいじゃないから
というような考え

渋々、最低限のことをやる
ような考え

そうなっていたら
せっかく持っている可能性を活かすことはできなくて
これはとても残念で勿体ないことだぞ
と思うのです。

まぁ、大抵の場合
そうなってしまうのは環境の影響だとは思うのです。

それをそのままにするのか
それとも変えるのか
それは自由ですが
それに気付ける環境が必要ですね。