夢とかチャレンジとかの話

夢は自分のありたい姿で
チャレンジはそのための行動。

ですよね?
概ね間違い無いかと。

夢を語ると否定される?

よくある話です。

いや
最近はよくある話では無くなりましたね。
夢を聞く機会がめっきり減りましたから。

かつては夢を語ると
「そんなのできるわけねぇだろ!」
という反応が定番でした。

学力とかお金とか地位とか設備とか

「そういうのあんのか?無いだろ?
じゃ、できるわけねぇだろ!」

えーとですね
そもそもそういうのがすでに手に入ってるなら
それは夢ではなく
単なる行動でしょうに。

と、そう言えればいいのでしょうけど
「無ければできない」
というのは
凄くもっともな理屈のように聞こえるので
真面目な人は納得しちゃうのでしょうね。

チャレンジにはリスクがあるからやっちゃダメ!
労力や自家にゃお金をかけて
失敗したらどうすんの?
失敗するのはダメなことだ!
みんなが心配するし迷惑だ!
バカだ!

なんてやられちゃうと
結果は二択。

  • やらないでおくか
  • それでもやるか

やる方を選択すると何が起きるかというと…

当然、初めてやることなら失敗するわけですね。
大きなチャレンジならなおさら。
すると

「だから言ったじゃないか
もうやめておいたら?」
「そんなことやってる暇があったら
もっとやるべきことがあるんじゃないの?」

ときたりする。
凄い説得力ですね。
偉大な予言者みたいだ。

本人も、ちょっとやってみて
うまくいかないことはやめるように
皆と同じことをやるように訓練される。

そんなのが常識で正義になってしまうと
できもしないことを語るのは悪いことだ
みたいな環境ができあがる。

そうなったらあとは簡単。
なにも考えなくても
自動的にチャレンジはしなくなるから。

その割には
他人と同じじゃ嫌だ
みたいなことを言ったりするので
心の奥底には何かあるのでしょうね。
そこには期待したい。

こういうのって
学生の世界だけじゃないですけどね。

チャレンジなんてしなくても
今の世の中、娯楽は沢山あって
暇は潰せるのだろうけど
それは単なる消費活動なわけで
そこから価値は生み出されないし
全く面白くない。

自分のありたい姿を手に入れるために
足りないものを手に入れるところからチャレンジで
トライして失敗して
諦めずに何とか頑張るのが学びでしょう。

行動するためのリソースが揃っていて
労せずに何かをやる
それが学びとは言わせない。
まして夢でもない。

何でこんなに力強く言っちゃうかというと
夢工房の学生達は
なーんにも無いところから始まったからです。

なーんにも無くても
やりたいものはやりたい。

じゃ、どうすんだ?

というところから一所懸命やってみたら
できちゃったわけです。

チャレンジできないってのは
たぶん本人に原因があったわけではないのです。

周囲の環境にこそ原因があるのは間違い無い。

ヘタにチャレンジされてしまうと

心配だったり面倒だったり
チャレンジできない自分が否定されているような気がしたり
いつまでも若年者を侮っていたい自分がいたりと

そんなとこなんじゃないでしょうか。

「おう!それすげぇじゃん!
やれやれ!!」

って言ってみたら
かなり面白い世の中になると思うんですけどね。

でも
チャレンジしたら手放すものは確実に存在するし
失敗もするわけで
それを財産だと思えないなら
言われたことを真面目にやるのが良いでしょう。

そうするとどうなるかはよく分かりませんが。

ノートライ・ノーエラーでノーリスクな
素晴らしい未来が来るといいですね。

…意地悪な言い方だな。

手段と目的

「日本人は…」とか言うのはあまり好きではないのです。
だって、人によって色々違いますし。
でもやはり、傾向ってのはあるもので。

日本の教育ってあまりに受動的すぎて
目的なんて要らないのですよね。
皆が色んなことを同じようにできなければいけない
という今のやり方では
むしろそんなものがあったら邪魔なのでしょう。

そもそも教育なんてのは
何かしらの目的のための手段のはずなのに
今やそんなものは見当たりません。

手段が目的化してしまっています。
「勉強できるようになること」
「良い学校(良い会社)に入ること」
が目標になっているでしょう?

それ、本来は手段でしょう。

というか
150年前の富国強兵とか
70年前の高度経済成長と
同じやり方をしている気がするのですが
どうでしょうか?

時代が時代なら
それが必然だったのでしょう。

特定のことに対して
ある一定レベルの人材が沢山いたら
有利な時代だったわけですが
今はどうなのでしょうね。

多様化に対応しなければいけない時代に
学校に限らず社会という環境は
若者達を収束させる方向に向いたまま
のように見えます。

もちろんその環境の影響を受けた彼らは
自ら自然と収束していきます。

何のためにやってるかは分からないけど
勉強できたら何とかなるでしょう
言われたことをやればいいでしょう
みたいな感じで

皆が同じようなことを
同じようにできなければいけない
という価値観に収束していませんか?

そういうやり方じゃ「尖ったもの」は生まれません。
だってみな同じだもの。
尖りようがない。

でもこれって
安保闘争とか、校内暴力のしょうもない時代とか
そういう時代を通過して
徐々に完成形に近づいてきたってこと?

やっと皆が同じような価値観にハマって
大人しくなってきた…
ってことだとしたら、ちょっと怖いですね。

どうなのでしょうね。
その辺はよく分かりませんし
そんなことばかり考えていると
「陰謀論」みたいな
考えていても何も変わらない
不毛な世界に行ってしまいそうなので
この辺でやめておきましょう。

では、こういうのはどうでしょう?
もちろん「皆が」という前提ではないですが。

好きなことを選んで目標設定して
それを全力でやって
納得いったら卒業しろ
みたいなやり方

成績表とか卒業証書なんて
今どき何の保証にもならないのだから
そもそもお墨付きなんて無くていいじゃん
という感じ。

もちろんその過程では
アドバイスとか評価が重要になるでしょう。

学校の悪いところは
「教える」のだから
それを熟知している教員が必要で
それができる設備がすでに整っていて
全て決められたお作法に従って
「やらせる」必要があるのだ
という構造になっているところだと思います。

それじゃ新しいことはできません。
チャレンジできません。

もちろんそういう学校もあって良いのですが
他の選択肢が無いのですよね。

段位は持ってないけど
異種格闘技戦はムチャクチャ強いぜ!
みたいな人材を育てたら面白いと思います。

基本は大事?

そうですね。
だったら基本を手に入れる方法から入れ替えるってのはどう?

アクティブとパッシブ

アクティブ・セーフティという考え方があります。
自動車の場合、衝突事故を例にとるなら
ぶつからないようにする安全技術です。
例えば、アンチロック・ブレーキ(ABS)とか
スタビリティ・コントロールなど
危険を目前にして、車体が制御不能に陥ることなく
回避動作を取れるようにするものです。

これに対して
パッシブ・セーフティは
事故が起きた瞬間から後の話です。
例えば、シートベルトやエアバッグなど
事故が起きた際に衝撃を緩和したりして人を守るものです。
車体の構造などでも工夫があって
クラッシャブル構造などは
衝突時に車体が変形していくことで
衝撃を吸収・緩和する考え方です。

さてさて
現在の学校での学びは
ほぼ例外いなく「やらせて」いるわけで
これはパッシブ
つまり「受け身」の学びで
これが普通になっています。

そもそも他人にやらされることが学びだ
みたいな価値観はどうなのだ?
とも思いますし
外的な動機で学ぶには限界があります。

自分の立ち位置や興味から
かけ離れた高等な知識を得たところで
それを実践する機会が無いのであれば
それは果たして役に立つ学びと言っていいのか?
とも思いますが
かつてはそういう形で
多くが一定の知識やスキルを持つ
そんなことが重要だった時代があったということです。

もちろん現在も、そういうスタイルが
時と場合によっては
必要で重要なのは変わらないのでしょうけど
受け身でやっている限りは限界があるのも事実。

やらされることなんて
遅かれ早かれ嫌になるものです。

自ら「知りたい」「できるようになりたい」
となれば、本当の学びになって
受け身の限界を突破できるでしょうし
それは社会に出てからも継続されるでしょう。

自ら望むことができたときの感動が大事で
それが継続的な学びの動機になりますから。

そこでアクティブラーニングの登場となるわけです。

が!しかし!

アクティブラーニングを「やらされて」いるとしたら
それは「パッシブ」に他ならないのではないか
と思ってみたり。

まぁ今は過渡期なのでしょうから
仕方ないのでしょうけどね。

何が言いたいかというと
学生達が好きなものを作って
本気で競い合うなんてものこそ
本当のアクティブラーニングだと思いますよ
ということです。