学生の本分は勉強だが

学生の本分は勉強だ
と言いますね。

それは分かります。
その通りだとも思います。

でも、その「勉強」って何だ?
という話しなのです。

何のためにやるのかというと
基本的には未来のための準備ですね。
程度の差はあるでしょうけど、ビジョンがあって
その実現のために必要だから。

多くの場合、そのビジョンは将来の仕事に関することでしょう。
仕事を通じて、自ら何かしらの価値を生み出す必要がある。

そもそも人は相互に価値を供給しながら依存しているわけだけど
これができなければ仕事ができない。

仕事ができなければ生きられないかもしれないので
生きるための価値を生み出すための
根源となることを身に付けるためと言えるかもしれない。
ずいぶん大げさな表現かもしれないけど
原理的にはそういうことでしょう。

自ら価値を生み出せないなら
他から奪うか、他に一方的に依存するしかない。

前者は我が国のルールでは禁じられているし
後者では心がもたない。

さて、では勉強は何をするのか?

理論とか公式とか、その他のものごととか
形式知を知り・覚えること
それによって、課された問題を解くこと。

それも大事でしょう。
けど、それだけで良いのでしょうか?
それが一番大事なのでしょうか?
皆がそれで良いのでしょうか?

そこが大変気になるところ。

私は、そのようにして得た知識の多くを忘れてしまっています。

仕事をしていると、覚えていても役に立たない
不要なものを頭の中に残しておく余裕はありませんでした。
開発のような刺激の強い仕事ならなおさらでしょう。

そもそも、テストをクリアするために暗記するように得た知識は
学校を卒業すると大半は忘れてしまうものなのだそうです。
半分どころではなく9割近くに達する場合もあるとのこと。

そんなものなのですね。

度重なるバイクでの転倒とか
出来が悪くて、しょっちゅう殴られていたためのパンチドランカーとか
そもそも能力が低いせいで学校で習ったことを忘れちゃったのだと思ってましたが
どうやらそれだけではないようです。
あぁ、良かった。

対して、実行・行動によって得た暗黙知の場合は
単なる暗記ではないので、そもそも忘れにくいし
仕事で最も役立つのはこれです。

机の上のお勉強が無意味とは言いません。

でも、何の役に立つのかという実感がないまま
記憶し続けるのは無理で
そんなのは結局役に立ちません。

動機がなく、言われたことをやる・やらされること
そんなのはいずれウンザリするし
身に付かないのは当然ではないですか。

何のためかも良く分からずに
言われたことをやるとか覚えるとか…
言われたことをやるのが勉強なの?

それ、単なる作業じゃないですか?
テストという数十分で終わっちゃうイベントをクリアするために
4年間もそんなことを続けるの?

もちろんそういうのも必要で大事なのは分かります。
ですが、それだけでいいの?
それが勉強の本質なの?

理想的なのは、自ら進んで学ぶこと
それが必要だと実感していて
それが役に立つ経験をして
その結果を次に繋いで大きくしていく。

そんなダイナミックな学びの経験が
理想的なのではないでしょうか。

「普通」なんて幻想だ

多くが「普通」になりたがりますが
そもそも「普通」って何ですかね?

「普通」を望む者が望んでいるのは何でしょう?
たぶん「皆と同じ」とか「労せずに…」のようなものですかね。

まぁ、突出したものは不要でしょう。
というか、そんなものがあったら
目立っちゃって面倒なことになるから
イヤなのかもしれません。

そもそもそんな価値観を持つのは
本人自らが選択したというより
環境の問題ではないかと思っています。
散々ネタにしてきましたが。

学校教育において
言われたこと全てが高いレベルでできると
何でもできるスーパーマンのような存在になります。
「言われたこと」というのが問題ではありますし
学校の中でしか通用しない話ですが。

そうなるのは難しいので
広範囲のことを、そこそこのレベルにしようとしているのが実際です。
言ってみれば普通の人を育てる仕組みですかね。

何か一つ、超人的な能力を持っていても
他がダメなら大学は卒業できません。

極端な言い方をするなら
大学は強みを伸ばせる仕組みではない。

たぶん強みを見つけることくらいはできるだろうけど
それを思う存分伸ばす機会は少ないでしょう。

普通を目指して何が悪いんだ?と言われれば
別に悪くはないと思います。

でも大抵は、就活を目前にして慌てたりしているわけで
自ら望んでそうなったのに、一体何やってんだか
という気もしますが。

ただ、強みを活かすということは
強み以外を、弱みをどうするのだ
というトレードオフや問題も抱えるわけです。

ただし、それは組織における
マネージメントで解決できる問題
でもあるわけで

むしろ色々な強みを持った者が集まって
相互に補完し合う集団というのは理想ではないかな。
色んな意味で。

普通の人達が集まって
皆で普通のことをやったところで価値は生まれませんから。

さらに言うなら
普通であることは本人が希望する価値観に過ぎず
周囲から価値を供給する側(に属したいと思っている学生)に対して
求めるものではないですよね。

普通の人は普通になろうとするので
心情的に強みに執着することはできないのは当然のことです。
そんなリスクを取るのはバカバカしいし怖いから。

でも、新しいものを生み出す開発なんて仕事は
そもそもがチャレンジなわけで、言ってみれば
リスクなどのトレードオフとかマネージメント
が仕事みたいなものです。

世の中、色んな人がいていいわけで
皆が普通に揃うような環境では
続くものも続かなくなっちゃうのではないでしょうか。

でも、今年の夢工房を見る限り
まぁ、捨てたもんじゃないかな
とも思うのです。

AIの台頭に伴って求められること 4

前回の最後の方で
「人の心」というワードを出しましたが
なんで?
というのが今回です。

そもそもAIは省力化のツールなわけですが
省力化ができると
面倒なことをしなくて済むわけです。
そのためのツールなのですから当然ですが。

しかし、世の中の価値の根源は
「面倒なこと」
だったりするのです。

そんなの当たり前ですね。

面倒ではない簡単なものには価値はありません。

面倒は嫌だけど価値は欲しい
それは矛盾でジレンマ。

AIがやってくれることは
知的作業の一部です。
が、知的作業とはいえ
大抵は多少なりとも肉体的な負荷も伴います。
書いたりタイプしたりだけでなく
言ってみれば、脳ミソを使うのだって
肉体的な負荷の一部と言っていいのかもしれません。
脳ミソの動作には凄いカロリー使いますから。

そんな面倒を回避できるのはメリットですが
面倒なことに対する忌避感は強化されるでしょう。

産業機械、IT技術、AIと
技術が、科学が発達すればするほど
面倒から解放されていきます。

そして当然ながら
面倒なことをやりたがらなくなります。
そして価値が低下する…
というループに入って下降していく
そんなシナリオが見えてきますね。

安心で安全で便利でお得な世界を追求
というか、それが自分発でなければ
追従と言った方が良いのかもしれませんが
そんな方向を向いていて
そこから脱出したいなら何かが必要です。

それは勇気とか欲とか
何かしらの心の力ではないかと思うのです。

とはいえ、皆さん
何のためだか良く分からないことを
幼少の頃から散々「やらされ」ちゃって
もう飽き飽きなんじゃないでしょうか。

だとしたら
行き詰まっちゃったり低迷したりするのは当然でしょう。
それはもう、個人も組織も、国もです。

と、そんなふうに問題提起して
危機意識を煽ってお終いにしたいわけではなく
ここからが大事なところです。

「面倒なのがイヤ」
というのがAIの台頭で加速するならば

やらないと分からないことは
ますます分からなくなります。

それはつまり
暗黙知を得る機会が凄い勢いで無くなっていく可能性がある
ということです。

であれば
暗黙知の価値が急速に高まる可能性がある。

でも、それを得るのは面倒で勇気が必要なので
心の問題なわけです。

好きなことをやるなら面倒をいとわないとか。
使命感を感じる何かがあって、そのために頑張るとか
そのための環境が価値を生み出していく可能性があるのではないか
と思っているのです。

それが今回言いたかったことです。