ともかくゴールは必要だ

何をやるにしても、「それは何のために?」というゴールが大事、ということなんですけどね。

ゴールがセットされているか否かで、何をやるにしても結果は大きく変わります。

ゴールが無ければ、できなりで、出たとこ勝負になるわけで、結果はどうなるか分からない。
それはそうですよね。

ゴールがあってもチャレンジをしているなら、どうなるか分かりませんが、これはちょっと違う。

ゴールがあって、方向が定まっているのなら、チャレンジの結果うまくいかなかったとしても、方向は定まっているわけです。
なので、「どうなるか分からない」というのは、ゴールとの距離だけの問題になります。
なので迷走はしない。

ゴールが無い場合はそれどころではありません。
方向も距離分からない。
基準がないのだから当然です。

そういった状態でベストを尽くす気になるか?
そりゃ難しいです。
出口の見えないトンネルで、いつまで走り続けることができるか?
そんな感じになるでしょう。

なので、どれくらい頑張れるかはゴールによって決まるわけです。
特に困難に遭遇したときに、諦めるか否かのボーダーラインや、どのようにやるかは、まさにゴールがあるか無いか、どんなゴールを設定したかで決まるわけです。

そう、言ってみれば気持ちの問題なのです。
能力だけで結果が決まるのではありません。

だってね、「これをこのようにするのだ」というゴールを設定して、そのゴールに到達できなければ命を失うという状況だったとしたら、誰だって必死にやるわけで、そうなったら結果だって大きく違ってくるわけでしょう?
テスト前の一夜漬けなんかも一緒かもしれないけど。

ともあれ、自分が本当に何をしたいのか分からない
といった状態でゴールがセットできないとしたら、それはとてももったいないことなのですよ。

時間という名の貴重なリソースを、日々無駄に捨て続けているようなものですから。

だったら、思い込みでも勘違いでも良いから、何かしらのゴールを設定した方が百倍マシです。
どうせそれで損をすることはないどころか、間違いなくゴール無しより結果が出るものですよ。

とはいえ、やはり好きなことをやるのが一番だと思うのですけどね。
とにかく何かやってみて、楽しくなるような工夫、好きになれるような工夫をするというのも同じくらい大事だと思います。
だって、好きなことをやっていても、いつかはきっと壁にぶつかって行き詰まる日が来るわけだし。

チャンスは欲しいかい?

だったらこういう話からしましょうか。

苦労は買ってでもしろ

そんなこと聞いたことがあるでしょう。
このことわざ、実にもっともなのです。

しかし、「苦労」が全面に押し出されてしまって、それによって得られるメリットは分からない。
まぁ、ことわざってそういうものだし、和歌や俳句でも分かるように、日本語は本当に意味するところや大事なところはあえて表に出さないことで、それによって醸し出される真意とか美しさとかがある…

って、そういう話ではなくて。

これ、単に「原因」と「結果」を考えても当然ですよね、という話なのですよ。

苦労という原因には、色々と含まれているのでしょうけど、それによって得られることもあるのです。
当然ながらそれは、苦労しないと分からないことです。

ただ、ここで効いてくるのが価値観。

苦労という事象に対して、ニュートラルな受け止め方をするなら、色んな解釈ができるのです。

苦労したけど
失敗したけど
「これによって、きっと良いことがある」
というポジティブな判断ができたら、きっとその判断相応の結果が得られます。

というか、その判断によって、原因となった経験を再利用できると言ったら良いのかな。

しかし、ネガティブな解釈をするなら、原因となった経験を再利用することはできません。
もう見たくも考えたくもないでしょう。
見えもせず、考えることもできなければ、利用不可能です。

さて
「苦労せずに生きたい」
という気持ちは分からなくはないのですが、若い頃からそんなに労力を払うリスクにフォーカスしてたらどうなるのでしょう?

そうなると、嫌なはずのリスクにばかり目を向けることになります。
リスクを回避することのプライオリティが高ければ当然のことです。

リスクにフォーカスした人は、その処理が自分の内的な部分で済んでいると思っているかもしれませんが、実は外にも漏れています。
声や態度、雰囲気などなど。
するとチャンスはやってこなくなります。

だって、チャンスの多くは他人が放ってくれるものですから。

リスクにばかり着目する人にチャンスを投げても、面白くハンドリングしてるとは思えないでしょう。
せっかくチャンスを投げても、迷ったり難癖つけられたらガッカリです。
だからチャンスが来なくなる。

そして、チャンスの中にも多かれ少なかれリスクは含まれています。
労せずして形になるチャンスは無い。

それに、人生ギブ・アンド・テイクでトレードオフなのですけどね。

さて、ちょっと発散気味な展開でしたが、まぁそういうことなのですよ。

早い話、前向きで明るいバカ(良い意味でバカになれるということ)がチャンスを得るのは当然なのです。

「正解」と「良いもの」はだいぶ違う

学生は正解を求めるのがお仕事です。
そればかりずっとやってきたのだから仕方ない。

でもこれ、以外とやっかいなのですよ。

どういうことかというと、正解って大抵一つです。
そりゃそうです。
一つの問題に対して一つの答えを出す。

そして、その正解を早く出したくなる。
一見良さそうですね。
時間は大事ですし。

でもね、このアプローチでいくと、良いものを作るのが難しくなるのです。

説明しましょう。

例えば、クルマに使用するある部品を考えて設計するとしましょうか。
学校の思考方法に慣れているとこうなります。

まず問題にフォーカスする。
部品の働きとか、要求性能とかですかね。

そこですでに狭い範囲に視野が狭まっていて、限られた範囲のみで成立性とか構造とかを考え始めます。

ここで早期に色んなものを絞っています。
早く一つの答えを出したいから。
そして部品の構造やら材料やらを決める。

一見それで良さそうです。
何が悪いのでしょう?

最初から絞っていることです。

「良いもの」を作りたいなら、良い必要があります。
でも、最初から狭い領域で考えたものは良いものではありません。
比較対象に対して良いわけではないから。

本来であれば、最初に環境とか条件とかを確認したり考えたりしたときに、その状況下ではどのような選択肢を取り得るのかを「広げて考える」必要があります。

なので上流段階で考えつく限りの選択肢を挙げてみる。
まるで方向性が違うアイデアなどが複数出るのが理想です。
そしてそれらを比較しながら相対的に良いものを選定する。

そう、良いものにするなら、相対的に優劣を見る必要があるので、複数の選択肢が必要なのです。

でも、学校のお勉強では、問題を出されたらそれを解いていくわけで、問題を出されたらそれを広げるなんてアプローチは採りません。

これ、半ば反射的にやっちゃうので、理屈で分かっていてもなかなかできないのですよ。
トレーニングが必要です。

意識しなくてもできるようになるために経験を重ねる。
それがトレーニングです。

夢工房の学生達も、毎回これで苦労しています。
でも、実戦ベースで経験を積んで習慣化しちゃえばどうってことはないのですけどね。