そもそも面白いか…だ

大学に限らず、学びにはモチベーションが必要。
あ、一応言っておきますが、学校での勉学なんて、学びの中のほんの一部に過ぎませんからね。

で、学校は面白いのか?そこにパッションはあるのか?
というのが決定的に大事だと思います。
というのが今回のお話し。

というか、高いモチベーションで多くの経験を積む環境でないと、知識だって経験だって身に付かないでしょう。
面白くもないことをやらされるような環境で、一体何が育まれるのでしょうか?

せいぜい最低限「以下」ですよ。

とか毒を吐いてスッキリしたいわけでは無く、この状況をもっと良くするにはどうしたら良いのだ?ってところが要点です。

人は面白がって夢中に何かをやるときって、凄く吸収するし、成長します。
そういった環境になっている学校がどれくらいあるのでしょうか?
沢山あるなら良いのですけど、恐らくほとんど無い。

どうも我々は、好きでもないことを苦労してやるのが学びであるとか仕事である、みたいな価値観を持っちゃっているようで、その辺をひっくり返さないとどうにもならんのだろうな、と思います。

例えば、我々理系人間は「力学」とかやるのですが、それが一体何の役に立つのかが分からないまま、必要だと「言われたから」学んでいたりします。

でも、それを自分が好きなことにリアルタイムで役に立てられたら、それはもう面白いはずなんですよ。
目の前で力学の威力を見せつけられて、それによって自分がやりたいことができたら
「力学スゲー!」
ってなるでしょう。
それは語学だって何だってそうだと思います。

で、どうも今は
「四の五の言ってねーで、まずは覚えるんだよ」
そして
「そしたら会社に入れるとか良い給料もらえるとか
何かいいこと起きるだろうからよ」
って感じでしょうか。

「まずはこの最高の登山靴とバックパック買えよ。
そしたら素晴らしい山が目の前に現れるだろうからよ。
この素晴らしいアイテムがあったら登れるに決まってんだろ」
みたいな感じですかね。

嘘ばっか。
あ、言っちゃった。

勉学はできるに越したことはないでしょう。
でも、それらは何かをするためのツールであって、問題は「何をやるか」なのです。

クイズ王になりたいなら、色々知っているだけで完結して良いと思います。
いや、たぶん反射神経とか勇気も要るでしょうけど。

でも、エンジニアとかクリエイターとか、新しいものをつくるのであれば、大事なのは「何ができるか」であって、色々知っていることは必要なことの一部です。

「知ってる」ことに加えて「できる」が無いと、成果は出せません。
凄い学力持ってたとしても、実社会では
「へー、凄いんだねー。
んで?お前何ができんの?」
で瞬殺でしょう。

まぁ、その辺は若い世代も薄々気付いてはいるでしょう。
消費者だって、これだけ世の中が変わっているのに従来通りの教育ビジネスに黙って乗せられているほどバカじゃないわけで。

とはいえ、「じゃぁどうすんの?」というのは正解が無いのが困ったところ。

でも、一つだけ正解らしきものは存在します。

大好きなことを夢中でやることです。

「そうか!じゃ、大好きなゲームやろう!」

ふーん、それでいいならそうしてみたら?

と、皮肉言ってる場合じゃない。
そうじゃなくて、クリエイティブで生産的なことですよ。
形はあっても無くても良いのだけど、自分以外の人に提示して
「わー、すげえな!」
となりそうなもの。
もしくは、そこに向かうものです。
急には無理かもしれないのでね。

すでに何かをやっているなら、それを続けるのがチャンスでしょうし、何も無ければあまり考えずに色々やってみたら良いでしょう。
夢中になってやっていれば、知識もスキルも必要になるでしょう。
どうしても成し遂げたいことがあれば「絶対に必要だ!」と思うでしょう。
その時が学びとして本当に「美味しいとき」です。
そうやって身に付けたものは忘れません。

年長者に聞いてみたら良いですよ。
「学生時代に徹夜して暗記したようなこと、どれくらい覚えてますか?
どれくらい役に立ちましたか?」
って。

「おう!ほとんど覚えてるし、みんな役に立ってるぜ!」
って人はどれくらいいるだろうか。

社会に出てから
「ああ、もっと勉強しておくんだった」
という話しを聞くことがありますが、それは無理だったんですよ。
だって、面白くもなかったし、本当に必要だと感じてなかったのですから。

良い子のロジック

良い子になって欲しい

それは皆の願い
なのかな?

でも、そもそも良い子って何だ?
ってとこが今回のポイントなんですけどね。

ところで、良い子のイメージってどんなの?

言われたことをやる。ちゃんとやる。

ですかね?

そして良い子はそこから踏み外したりしない。
余計なことをしない。

それが極まると…

言われたこと以外やらない
となりやすいのではないかな。

それによって怒られるという面倒が発生しないので、リスクを回避できる。

しかし!
言われたことをやる
というのは、指示する側の想定の範囲内で行動するということだから、意外性が無くて面白くないのですよね。
新しいことや、驚くような結果は出せないのです。

何より問題なのは…

小さいことから積み上げる思考をするということだと思っています。

これ、どういうことかというと、何か新しいことをやったり、方向性をスイッチしたりするときに、現状に対してチマチマ付け足すような考え方ややり方をするってことです。

それやっちゃうと、入出力に対するゲインが良く分からないのですよ。
あ、良く分からない言い方でしたね。
何によってどれだけ変わるかとかが分かりにくいってことです。

何をやったらどうなるのかよく分からない
分からないからできない
もちろん面白くない
みたいなループにはまりやすい。

色々言いましたが、言われたことをやってくれる人は必要です。絶対に。
でも、皆が同じじゃつまらないのですよ。
言われてもいないことをやって、驚かせてくれる人も必要です。

余計なことをやると大抵怒られますが、時に驚いたり喜んだりしてくれる人もいます。
それが付加価値ですね。

人は生まれたら、ルールも常識も倫理観も無い状態から成長していって、大人になるのだけど、どうなるかの鍵は、やはり環境なのですかね。

色々言ってきましたが、チャレンジはできないのはつまらないよね、というのが今回言いたかったこと…で良かったのかな。

ものづくりの素晴らしいところ

たまに思うのです…

成績表って要るのか?

って。

ダメですか?学校の教員がそんなこと思っちゃ。

いや、いいんですよ、成績表があっても。
でも本当に言いたいのは

それが全てなのか?

ってこと。

そんな限定された「部分」だけを示す数値だけで何が判断できるんだ?って思うのです。
成績とか学歴とか資格とか
そういうもの全てに対して。

別にそれらに意味が無いと言うつもりはないのですけど、仕事ができる、もしくはできるようになる可能性がある、というのとイコールでは無いですよね。

いわゆる成績至上主義
成績を、学力とか学歴とか、資格に置き換えてもいいのですけど、それってこういう理屈でしょ?

部分的な優れたものを持っていれば、それによって素晴らしいことが為される

どうもそういう考え方には違和感を感じるのです。
学力とか学歴とか、資格が無意味だと言うことでは無く、順番が逆だろうってことです。

だってね、素晴らしいボルトやらナットやら、それこそエンジン部品やらタイヤやら…
そういうものを片っ端から集めたら、素晴らしいクルマができるのだ!なんて言えませんよ。

「素晴らしい部品」とは言っても、一体それはどういったクルマを形づくることを前提としているのかによって変わってくるからです。

例えば、大馬力のエンジンで、高いスピードでサーキットを走ることを前提に「良い」サスペンションを、乗用車に取り付けて街乗りしたら、全く良くないですから。
もちろんその逆もしかり。

つまり、細々したものを手に入れるには、その前提というか、ゴールが定まっていないと基準が無いわけで、基準が無ければ「良い」なんて相対評価の結果は得られないわけです。

なので、成績表が大事なのであれば、それは何のための成績なのか?どういったシーンで、その成績を形づくる要素が利用されることが想定されているのか?というのが最も重要だと思うのです。

それ無しに「良い」とか言われてもねぇ。

かつては「理系」とか「産業」とかのカテゴリーに向けた汎用的な評価としての成績表が役に立ったのでしょうけど、これだけ多様化した世の中であれば、もっと具体的で実践的な目的に合った評価方法があるべきだと思うのです。

クルマとかロボットとか、そういった具体的なものに利用できる資質をどれだけ持っているのか?というのはとても参考になると思います。

そこまで対象を絞ってしまうと、必要なものは限定的になってしまいそうですか?
クルマしか作れないんじゃないか?
ロボットを作ることにしか役立たないのではないか?
って。

実はそうではありません。

ものづくりが素晴らしいのは、知識やスキルだけではたかがしれていることが簡単に分かるからです。

単に知識やスキルがあるだけでは大したものは作れません。
企画力やチームワークや勇気や持続力…数え上げたらきりがありません。
そういったものは、単体としての評価が凄く難しい。というか、できない。

そして、そこから得たものは、他の分野でも大いに役に立ちます。
本質的な部分は変わらないから。

で、どうするの?
ってとこですね、重要なのは。