仕事も「心」なのでした

「できる」ようになるためには「やる」必要があるわけで
そのためには探究心とか好奇心は欠かせませんよね
なんて話を卒業生としていました。

例えば、プレス金型で製品を打つ(金属材料などをプレス機で成形することです)場合、一見やっていることは単純なようですが、実は細かなノウハウがあって、精度の高い製品を作ろうと思ったら、通り一遍の知識ではどうにもならないのです。

実に繊細な条件や調整の結果、設計通りの製品ができあがるわけで、これは単にAIにお任せで何とかなる世界ではないと思います。

「え?そんなところをいじると、そっちが変わっちゃうの?」
みたいなトリッキーな仕事なのです。

そういう繊細な仕事をキッチリ仕上げていくには、「なんでそうなるんだ?」という自発的なアプローチや、「なんで?なんで?…」と突き詰めていく姿勢が必要です。

これは単に勉強ができるとか何とか、そういうものではないのです。

というわけで
探究心とか好奇心とかを持って
やっぱりその仕事を好きにならないと無理だよね。
そういうのを楽しめないとね。
と、そんな話をしていたのです。

で、探究”心”とか好奇”心”とかなんだから
結局は「心」ですよね。
それが無いと仕事できるようになりませんもの。

うん、確かにそうですね。
本当に仕事ができる人を見ても
学生を見ていてもそう思います。

その「心」を土台として
技術やら何やらが乗っかってくるんだなぁ。

うん
技術は人なり
です。

感性と価値観

ものを作るとき
知識とかスキルとかは
その出来映えに大きな影響をもたらすのは当然ですが
「感性」とか「センス」を忘れてはいけません。
これらはオマケではないのです。

そもそも「感性」とは何か?
ものごとを感じ取るセンシング能力ですね。

経験に基づく基準があって
それに対してセンシングしている対象の位置付けを評価する能力
というところまで含んでいる場合もあるでしょう。

そもそもセンシングするだけなら
経験に基づく基準は要らないのかもしれなくて
対象に興味を持てるか否かが大事なのだろうな。
とも思いました。

興味の無いものはセンシングの対象にならないし
評価もできないでしょうから
単にセンシングしているだけじゃ
それは感性とは呼べないでしょうね。

いわゆる「センス」は、ほぼ同じ意味ですが
「センス」は表現されるアウトプットの結果まで含むこともありますね。
なので、センスが良いとか悪いとかいう話になる。

さてさて
感性が評価する基準は
「価値観」ということになるでしょう。

これに基づいてセンシングの対象を
選別したり評価したりしているはず。
当然、興味のないことは対象にならない。

ものづくりに重要な感性を磨くには
当然ながら経験の数とか質が大事になってきます。
五感を使って実際に「やる」ということです。

これは感覚的なことだから
そもそも言葉や文字にして伝えるのは難しくて
定義すること自体が難しい。
もちろん授業では伝えられない
やらないと分からない世界。

もちろん若い方が感性は豊かで敏感なので
始めるのは早い方が良い。

年齢を重ねてから感性を磨くのは…
絶対に無理ではないだろうけど難しい。

特に手を使ってものを作っていくことは
癖が影響するだろうから。

癖は無意識に発動するフィルターだったりもするから
癖が付いてしまってからでは見えなくなるし、分からなくなる。

品質とか美しさは今の授業では学べません。
それを達成するため必要な考え方とか
努力のしかたも分からないでしょう。

下地が無いままで社会に出て
時を逸した後に学んでも限界があるだろうから
大学を出てからでは、色んな意味で無理があるでしょうね。
価値観が固まってしまってからでは遅いのです。

何とかしないとね。

色々あるけど正解は一つじゃない

たまに思うのですよ
独裁政治の国に生きている人は幸せなのかと。

我々の側から見ると
窮屈で困難そうだけど
そこに住んでいる人は
まんざらでもなかったりするのではないだろうか。
そもそも価値観が違うというのもあるでしょうから
単純比較は難しいとは思いますが。

独裁制の場合、統治者が決めたことをスピーディに実行できる
というメリットがあったりします。
この辺は自由主義国にはマネできないでしょう。

厳しい自然環境で生活する場合
強力な権力を持った少数が統治した方が
メリットがあるのだと聞いたこともあります。
確かに独裁制の国は厳しい環境に多いのかも。

そんなふうに
デメリットもあればメリットもあるのですね。

とはいえ、独裁制の国に住みたいとは思いませんけどね。

でも、向こうから見れば
こっちが不幸な国に見えるのかもしれなくて
「あんなところには住めない」
と思っているかもしれませんね。
自由主義国ならではの
しょうもない事件なんてのは
独裁制の国に住んでいないと分からないのかもしれません。

独裁にしても自由にしても
いずれもプロパガンダが効いている気がしなくもなくて
本当のところは行ってみないとよく分からないのかもしれません。

ベトナムなんて社会主義国だけど
行ってみたら、なんとなくホノボノしてるような雰囲気でしたし。
あそこは独裁ではないのかな。

そうそう、プロパガンダといえば
昔エジプトに行った際に
お土産物屋で値引き交渉をしたら
「安くするから、みんなに俺の店をプロパガンダしろ!」
と言われたのを思い出しました。
そうか、あなたたちはそう言うのか(笑)
これはどうでも良い話だけど
プロパガンダで思い出した愉快な思い出。

何が言いたかったかというと
正解とか不正解とか
答えは一つではなかったりするよね
というようなことなのです。

でも、学校教育は正解がなければならない世界
そうしておかないと評価できないから

なので、学校で普通に学ぶと
課題には正解があるのだという考え方になる
それは当然。

でも、多くのことには
メリットもあればデメリットもあったりするのが普通で
「何のためにどうするの?」
というようなことが重要なのですよね

というようなことが言いたかったのでした。

ものを作るのも同様で
正解なんてそもそもありません。
それは自分で作るものですから。