キミはどこに立ってる?

人は何かしらの集団に属しているわけで、そこでどのような立ち位置にいて、自分が為すべき事は何なのか。その辺の認識は大事だと思うのです。

それは本人にとっても
賊する組織にとっても。

何で突然こんな話をするかというと、学校という組織に属する学生は、主体性や自主性を求められていたりしますが、急にそんなことを言われても難しいよね、と思ったからなのです。

というのも、多くの学生は、社会構造の中では単なる「消費者」だし、学校では、環境やら何やら与えられる立場であって、自分から供給するとか、自分から何かを変えていくという経験があまりに少ない。
というか、そんなことを求められる機会がほとんど無い。

しかし、僅か数年後にはまるで逆の立ち位置に立つことになるという、なかなか微妙な情況にいるわけです。
大学生であれば、20年くらい継続してきた立場を、わずか4年程度でひっくり返す必要があるのです。
しかも、多くはそうなっていることに気付かないまま…ですよね?

というか、そんなのは自分で気付けということなのかもしれませんが、気付くチャンスはそうそう無かったりもします。

そんな経験ばかりで、夢工房でやっているような自発性を求められる活動をすると、しばらくはどうするべきかを掴みかねる状態が続きます。
経験が浅ければ、分からないこと、できないことだらけなので、それは仕方ないことかもしれませんが。

環境や組織に対して批判的な意見を持ったり、モチベーションが上がらないのを環境のせいにしたり。そんなことが当然起こります。

まぁ、客観的にそういう状態になっているのを認識するのは良いことだと思いますが、あたかも評論家のような一方的なものの見方をされても
「そりゃキミの環境に関することなんだから、キミ自身が解決すべき問題ではないのかね?」
って話なのですけどね。
でもまぁ良くある話です。
気持ちが「お客さん」で「消費者」なのであれば、そう感じて当然でしょう。

でも、この状態に至って、それを乗り越えて主体性を身に付けていくのであれば、これは必要なプロセスでもあるのです。
この辺で何度か記事にしていますが。

主体性だの自主性だの自律性だの言ったところで、最初からすんなりうまくいくケースなんてほとんど無かったりするわけで、その過程においては何かしらの問題とか不足とかがあるのは当然で、それを乗り越える経験こそが成長だと思います。

こういうのって、これから社会に出るエンジニアの卵にとっては、クリティカルに重要だと思うのですけど、もし授業でこういうのをやろうとしたら、すごく面倒なのです。
実は数年前までは、こういうことを体験できる授業があったので良く分かっています。今は無くなってしまいましたが。私はそういうの、大好きだったのですけどね。

でも、夢工房では、その辺の価値観の入れ替えを必要とする活動を20年以上にわたって継続できていて、めでたしめでたしなわけなのです。
まだまだ改善は必要で、道半ばなのですけどね。

やるべきことをやる

自分にとっての「やるべきこと」は何ですか?

他から課された「やるべきこと」かもしれないし
自分で定めた「やるべきこと」かもしれない。

他から課されたものなら最小限で最低限にやればいい
そうしたいと思うのが当然かもしれません。

自分で定めたものなら最大限にやりたいと思うでしょう。

どちらにするかは自分次第。

「自分で定めたもの」とは言っても
何をどのように定めるの?
というのもあるわけで
それもまた自分次第。

目標を定める
とは言っても色々あるわけで

地道で着実な目標を定める場合もあるでしょうけど
それが全てではありません。

一足飛びに高い目標を定めるのは
無謀で間違ってる?

そんなことはやってみなければ分からない。

やってみなければ分からないことをやってみて
何かが分かれば
それこそが「勉強」だと思うのです。

何をもって成功とするか失敗とするか

その判断基準は自分で決めて良いのであって
なにも他人の基準で測らなくても良いのです。

やる前からやればできることが分かっている

そんなことばかりをチマチマやって
気付いたら時間が経っていて
結局チャレンジできなかった

そんなことにはなりたくない
と思うのです。

お利口さんのやり方は万能ではない

ものごとを悲観的に見るのは真面目である
もしくは
真面目な人はものごとを悲観的に見るものだ

なんかそんな風潮がありませんか?
少なくとも学校ではそういう風潮がある気がします。

これ、昔からなので
別に最近の若者がどうのということではありません。
私の世代だってそんな感じだったし
さらにその上の世代だって同様でしょう。

実は、それにはメリットがあるのです。

悲観的なら
一見頭が良さそうに見える上に
やらなくて済むからです。

あと、白黒はっきりさせて
結論を急ぐのも良くありませんね。

そうすると
一見、効率が良くて
早期に答えが出る(仕事が早い)
ように見えることがあります。

でもそうなると大抵は
思考の幅が狭まって
良いアイデアが出ません。

でも、これにもメリットがあります。

たくさん考えずに済むのです。

でも、幅の狭い思考では
そもそも良いネタは揃いません。

恐らくこんなふうになっちゃうのは
「やる」経験が少ないからじゃないかな
なんて思うのです。

考える機会はたくさんあるのでしょう。
それはもう嫌ってくらいに。

でも、行動の量とのバランスが取れていないので
「どう考えるべきか」という
「考え方」が洗練されていかないのではないかな。

それは考えてばかりでは見えてこなくて
「やる」から見えること、気付くことが
たくさんあるのだと思うのです。

考えることばかり要求されていては
そりゃやらなくて済む方法を考えたり
効率を上げたくもなるでしょうに。

まぁ、そう言っている本人が
それほど洗練されているわけでもないのですが
その辺の関係性は想像つきます。

なぜって、出来が良くないからです。
「なんで自分は出来が良くないのか?」
ということと
仕事をしていて
うまくいったときの情況を考えると
その辺が見えてきます。

出来が悪い人間が
手を替え品を替え
色々チャレンジして
脱出口が見えたときに分かることがあって

恐らく頭が良くて
少ない手数で何でもできちゃう人は
その辺のセオリーみたいなものが
分からなかったりするのではないかな。

でも、今のやり方
「たくさん考えて”やる”を軽視する」
やり方は
ボチボチ限界でしょう。

というか、違うアプローチがあって良いと思うのですよ。

学習要領みたいので画一的に縛り上げて
皆に同じようなことを考えさせて
本当に大丈夫なんですかね?
何がって、本人も含めた世の中がですよ。

って、今さら聞くまでもないのですが
それをさらにギンギンに縛り上げていきましょう!
って行っちゃいそうな気がしてなりません。

何やら先細っているところに
どんどん追い詰められているような。

多くの学生にしてみれば
短期的に自身が高く評価されることが重要なのであって
そんなのはどうでも良いのかもしれません。

でも、数年後に社会に出たらどうなのでしょう?
そこで本当にハッピーになれる考え方を教えておくべきですよね。学校は。

知識ばかりじゃなく
「やる」方にもうちょっとウエイトを掛けていけば
自身で気付けることは格段に増えるはず。