環境を作るということ

人の成長には環境が重要です。
学校、学生に限ったことでは無いですが。

その環境は、用意されたものであることが当然
という風潮がありませんか?

ちょっと分かりにくいかな。

「学費払って学校に行っているのだから
ベストな環境がすでにあるべき」

「会社が良い環境であるのは当然で
楽ちんな仕事を的確に指示すべき」

まるで、商品をお金を払って手に入れたのだから
不良品は許せない
みたいな。

で、気に入らなければブラック呼ばわりするとか。

まぁ、分からなくは無いです。

お金を払えばソコソコのものが
当たり前のように手に入る世の中なのですから
そんな風に思う人がいるのも理解できます。

でも、今回言いたいのは

そういうところで環境を作る努力をするのも
良いんじゃないの?

ということであり

それをやったら皆のためになるんだから
自分の価値が向上するので
自分のためになるよね。

ということなのです。

そもそも完璧な組織なんて無いわけだし
自分が所属して、特にやることがなかったら
つまらないじゃん
と思うのですよ。

ただいるだけ
言われたことをやるだけ

そんなんじゃ面白くないでしょう。
成長もできないし。
自分がいる価値とか意味とか無いですものね。

完璧じゃ無いから色々やることができるわけで
そこで環境とか風土とかを自分の手で作り上げることができたら
それは凄い経験だと思うのです。

ここからは想像なのですが

今の日本の学校って
若者を成長させようなんて
思ってないところが多いのではないだろうか
と思うことがあります。
杞憂ならそれに越したことは無いのだけど。

色んな人に文句を言われないように防御壁を張って
学生の頭の中にそこそこの知識を突っ込んで
「よかったね!頭良くなったね!」
で、そこから先は社会にお任せ!
って感じになってないだろうか。

もちろんこれは学校に勤める人間
つまり先生がそうしたいと思って
しかもよかれと思って…

実は学生自身も保護者も
同じようなことを望んでいて
失敗しないように、傷付かないように
頭の中に知識を詰め込んで
「よかった!頭良くなった!
これで楽して稼げる!」
ってやりたかったりしないだろうか。

頭に知識が入ることが成長だと思っていたら
そうなっちゃうかなぁ…なんて。
考え過ぎなら良いのですが。

でもまぁ、我々は我々のやり方でやらせてもらいますよ。
授業じゃないし。

自身の力で作り上げるというチャレンジをして
どこまで成長できるか。

そんな経験が皆のための
何かしらの目安になったら、これ幸い。

人は意味の無いことに耐えられない

学生が色々できるようにならなきゃと言う。
数学とか力学とか語学とか。

まぁ、結構なことです。

でも、それが何のためなのかが定まっていなければ
難しいことになるでしょう。
なぜかというと

人は意味の無いことに耐えられないから。

目的、目標が無ければ学習は
「意味の無いこと」
ということになってしまうのではないかな?

勉強でも何でも良いけど
「何のために」が無ければ
そこに意味は無いわけで
意味が無いことをいつまで続けられるのか?

実際、私はそんな状況でした。
大学では、一部の科目には異常なほど興味を持ちましたが
興味が無い科目には全く力を入れられませんでした。

で、サーキットばかり行っていたわけですが
まぁ、それはそれで良かったかな、と思います。

勉強ができないコンプレックスが
バネになったような気もしますし
興味を示せた僅かながらの工学的な知識を
活かすチャンスにもなったと思いますし。

しかし世の中には
学ぶことそのものが目的になっている人はいるわけで
それで勉強ができる人って凄いな
って思います。

でも、それは自分のやり方ではない
そう思っている学生は結構いるはずです。
というか、そういう学生の方が多いはず。

工科系の場合は
ものを作りたかったりするので
定型的な知識などがゴールなのではなく
あくまでも手段なわけです。

そんな連中に手段ばかり与えて頭をでっかくして
目の前にニンジンが無ければ
走り続けることはできないでしょうね。

それに耐続けることができる
というのも凄いことだと思いますけど
あまりハッピーではありませんよね。
忍耐力は大事ですけどね。

ピラミッドの話

初めてエジプトのピラミッドを見た時
どう思ったと思います?
エジプト最大のクフ王のピラミッドです。

思ってたより大きくないなぁ
です。

実際は大きいですよ。
でも、見る前の期待に対して
ということです。

期待値が大きすぎたのです。きっと。

クフ王のピラミッドの存在が近代文明に認識された当時
世界で最も高い人口の構造物だったそうです。
そして、作り方に関しては
現在も決定的な説は無いなど、とても興味深いです。

技法としての作り方は良く分からないけど
分かっていることがあります。

それは…

最終形態を決定してから作り始めたのは間違いない
ということです。
当たり前ですが。

頂上には大きな四角錐のキャップストーンが乗っていたのですが
(今はありません)
その位置と形状はすでに決まっていて
そのために最下段から作っていったのは間違いないでしょう。
要は、キャップストーンはゴールです。

世界最古の木造建築群である
法隆寺も同様でしょう。

法隆寺の五重塔は
1,300年を経た今も立ち続けています。
もちろん何度もメンテナンスはしていますが
基本的には昔のままです。

ゴールとしての最終形態ありきで
土台から作っていくのは、いずれも同様でしょう。

さて、今回は何が言いたいのか?

何で社会に出る前に
ゴールやビジョンを実現する経験をしないんだい?
ということなんですよ。

技術だって学問だって
そのためにあるのに。

どうなっちゃうか分からないけど
まずは土台から作ってみるか
なんてことはあり得ないですよね。

できるかどうか分からないけど
ビジョンを実現するために頑張ってみて
何が大事か体験しないと
その先の学びだって、どうしたら良いかなんて判断つきませんよ。

「どうせ社会に出たらやることになるから…」
じゃ遅すぎます。

だって、ビジョンのためにやる
という経験が無くて
言われたことをやる
が習慣になっているのですよ。

年齢を重ねてから
急に路線変更なんてできませんよ。

もちろん、そんなんじゃ面白いことになりません。

若いうちはデカイ事なんてできない
なんてことはありません。

三内丸山遺跡の大型掘立柱建物を知ってますか?
直径1mm長さ14m以上のクリの丸太を6本立てた構造です。

当然ながらこの頃は、クレーンなどの機械も、運搬のための車輪も
木を切るための金属製のノコギリすらありません。

縄文時代の平均寿命は30才くらいです。
なのでこれは、凄く若い連中が頑張ったに違いないのです。

歴史を振り返れば
世界中、きっとそんなことばかりです。

なので、今はできないなんてことはあり得ません。
今だってできるはず。

ちなみに、三内丸山遺跡は二度ほど行きました。
ぜひ足を運んで、現物を前に当時を想像してみて下さい。
「オレにもできるかも」
って思えるんじゃないかな。