手段と目的

「日本人は…」とか言うのはあまり好きではないのです。
だって、人によって色々違いますし。
でもやはり、傾向ってのはあるもので。

日本の教育ってあまりに受動的すぎて
目的なんて要らないのですよね。
皆が色んなことを同じようにできなければいけない
という今のやり方では
むしろそんなものがあったら邪魔なのでしょう。

そもそも教育なんてのは
何かしらの目的のための手段のはずなのに
今やそんなものは見当たりません。

手段が目的化してしまっています。
「勉強できるようになること」
「良い学校(良い会社)に入ること」
が目標になっているでしょう?

それ、本来は手段でしょう。

というか
150年前の富国強兵とか
70年前の高度経済成長と
同じやり方をしている気がするのですが
どうでしょうか?

時代が時代なら
それが必然だったのでしょう。

特定のことに対して
ある一定レベルの人材が沢山いたら
有利な時代だったわけですが
今はどうなのでしょうね。

多様化に対応しなければいけない時代に
学校に限らず社会という環境は
若者達を収束させる方向に向いたまま
のように見えます。

もちろんその環境の影響を受けた彼らは
自ら自然と収束していきます。

何のためにやってるかは分からないけど
勉強できたら何とかなるでしょう
言われたことをやればいいでしょう
みたいな感じで

皆が同じようなことを
同じようにできなければいけない
という価値観に収束していませんか?

そういうやり方じゃ「尖ったもの」は生まれません。
だってみな同じだもの。
尖りようがない。

でもこれって
安保闘争とか、校内暴力のしょうもない時代とか
そういう時代を通過して
徐々に完成形に近づいてきたってこと?

やっと皆が同じような価値観にハマって
大人しくなってきた…
ってことだとしたら、ちょっと怖いですね。

どうなのでしょうね。
その辺はよく分かりませんし
そんなことばかり考えていると
「陰謀論」みたいな
考えていても何も変わらない
不毛な世界に行ってしまいそうなので
この辺でやめておきましょう。

では、こういうのはどうでしょう?
もちろん「皆が」という前提ではないですが。

好きなことを選んで目標設定して
それを全力でやって
納得いったら卒業しろ
みたいなやり方

成績表とか卒業証書なんて
今どき何の保証にもならないのだから
そもそもお墨付きなんて無くていいじゃん
という感じ。

もちろんその過程では
アドバイスとか評価が重要になるでしょう。

学校の悪いところは
「教える」のだから
それを熟知している教員が必要で
それができる設備がすでに整っていて
全て決められたお作法に従って
「やらせる」必要があるのだ
という構造になっているところだと思います。

それじゃ新しいことはできません。
チャレンジできません。

もちろんそういう学校もあって良いのですが
他の選択肢が無いのですよね。

段位は持ってないけど
異種格闘技戦はムチャクチャ強いぜ!
みたいな人材を育てたら面白いと思います。

基本は大事?

そうですね。
だったら基本を手に入れる方法から入れ替えるってのはどう?

アクティブとパッシブ

アクティブ・セーフティという考え方があります。
自動車の場合、衝突事故を例にとるなら
ぶつからないようにする安全技術です。
例えば、アンチロック・ブレーキ(ABS)とか
スタビリティ・コントロールなど
危険を目前にして、車体が制御不能に陥ることなく
回避動作を取れるようにするものです。

これに対して
パッシブ・セーフティは
事故が起きた瞬間から後の話です。
例えば、シートベルトやエアバッグなど
事故が起きた際に衝撃を緩和したりして人を守るものです。
車体の構造などでも工夫があって
クラッシャブル構造などは
衝突時に車体が変形していくことで
衝撃を吸収・緩和する考え方です。

さてさて
現在の学校での学びは
ほぼ例外いなく「やらせて」いるわけで
これはパッシブ
つまり「受け身」の学びで
これが普通になっています。

そもそも他人にやらされることが学びだ
みたいな価値観はどうなのだ?
とも思いますし
外的な動機で学ぶには限界があります。

自分の立ち位置や興味から
かけ離れた高等な知識を得たところで
それを実践する機会が無いのであれば
それは果たして役に立つ学びと言っていいのか?
とも思いますが
かつてはそういう形で
多くが一定の知識やスキルを持つ
そんなことが重要だった時代があったということです。

もちろん現在も、そういうスタイルが
時と場合によっては
必要で重要なのは変わらないのでしょうけど
受け身でやっている限りは限界があるのも事実。

やらされることなんて
遅かれ早かれ嫌になるものです。

自ら「知りたい」「できるようになりたい」
となれば、本当の学びになって
受け身の限界を突破できるでしょうし
それは社会に出てからも継続されるでしょう。

自ら望むことができたときの感動が大事で
それが継続的な学びの動機になりますから。

そこでアクティブラーニングの登場となるわけです。

が!しかし!

アクティブラーニングを「やらされて」いるとしたら
それは「パッシブ」に他ならないのではないか
と思ってみたり。

まぁ今は過渡期なのでしょうから
仕方ないのでしょうけどね。

何が言いたいかというと
学生達が好きなものを作って
本気で競い合うなんてものこそ
本当のアクティブラーニングだと思いますよ
ということです。

進歩の功罪と感情のコントロール

「肝が据わっている」
なんて言い方がありますね。

大抵の場合、想定外の事象に対してうろたえたりしないとか
度胸があるみたいなことでしょうけど。

予測できないことが起きることに対して
どのような感情を持つか
というのが根底にある
と思っています。

感情で言えば
安心の反対には心配があるわけで
心配側にどんどん寄ってしまうと
極端な場合はパニックになるかもしれません。

そんな極端な例はともかく
それらの領域のうち
どの辺を好むのか
そんなことも結構重要なのかな
なんて思ったりしています。

基本的には以下の二者かな
と思います。

安心するために安定したい人
同じことを繰り返して
同じ結果が起きることを望む人

同じことを繰り返すのが
我慢できない人
変化の中に喜びを見出す人

でも、ものごとにもよりますかね。

まぁ、世の中には
両方いてくれないと困るわけですが。

あることは安定していて欲しいけど
別なことには変化を望む

そんなこともありますね。

安心から心配にかけてのグラデーションのどこに閾値があるのか
そして、どの程度その閾値と距離を取りたいのか
そんなことも行動原理になったりするでしょう。

さて
なんかこう閉塞感を感じる環境の根源は何なのだろう
と考えたとき、一つは
多くのことに対して予測ができる世の中
になっちゃっているからなのかな?
なんて思うのです。

ヘタすりゃ
やる前から、すでに正しい答えが決まっている
というような世の中になってきているのかな。

それは技術の進歩によるものなのかもしれません。

技術が進歩すれば
あらかじめ安全な結果が起きることを予測して
それをやれば安心が得られます。

そういうのがどんどん進んでいくと
予測が付かないことはやらない
みたいなことになるのは当然なのかもしれません。

でも、新しいことなんてのは
やってみないと分からないので
そういう方向性でいくと
新しいことが生み出せなくなりますね。

するとその後はどうなるか?

まさに成長曲線ですね。
グイッと上向いたら
その後は頭を打つ。
王者必衰。

その後どうするかは本人次第。

感情が安心を求めたら
予測が付かないことはやりたくないでしょうし
そこから得ることも学ぶことも無いでしょう。

自分の感情をコントロールする
なんてたまに聞きますが

悲しいのを我慢するとか
嬉しいのを押し殺すとか
そういうことばかりではなく

自分が求めている感情を変化させる
そういうことこそ大事なのではないかと思うのです。
でも難しいことですよ。

だって、自分がどのような感情を求めているかなんて
普通は意識していませんから。

ただ
肝が据わった人になりたいのなら
チャレンジして
出た結果の評価とフィードバックをして
グルグルして経験の数を稼ぐ。
これに尽きるのではないかと思います。

すると
予測の範囲が広がるし
結果に対する対応にも
過去の経験が参考になったりするので
色々と応用が利きますから。

そうなったら
突発的なことにも対応できるし
パニックにはなりにくいでしょうね。

そんなことをしながら
忘れてはいけないのが
タイムマネージメントです。

考えるにしても
やるにしても
時間は有限ですから。

失敗しないようにじっくり考える
失敗しないようにゆっくりやる
そこにフォーカスしすぎると
大抵は時間切れになってお終いです。
それを本当の失敗と言います。

しかし
グルグルサイクルの数が結果を決めるのですから
1サイクルを早くする必要があります。

でも、考え無しにやってもダメで
慌ててやり過ぎてもダメ。

そのサジ加減こそ重要なのでしょうが
それも経験によって掴むもの。

さて、どうしましょう?

迷ったら「やる方」からトライして調整していくのですよ。