つまり行動力か?

ものごとをうまく運ぶには、色々と細かい要素は必要だと思います。知識とか技術とか勇気とかパッションとか。
でも、それを得るためにどうしたら良いのかというのは、要素がはっきりするほどぼやけているような気もするのです。

抽象度を下げすぎちゃって、ゴールと細かい要素を埋めるものが無いというか何というか。
ちなみに、抽象度が高いのが抽象的で、低いのが具体的です。

で、これならどうだ?と思うのが「行動力」です。
どうですか?これならイメージしやすいのではないでしょうか。

どう動けば良いかがイメージしやすいでしょう?

今日はモビリティリゾートもてぎで行われた全日本学生フォーミュラ対象の試走会に混ぜてもらいました。

少々行動力の重要性を甘く見ていたウチの学生達は、満足にマシンを走らせることができず、さんざんな結果でした。
マシン側の準備不足、運用レベルの低さは、それをハンドリングしている学生達の低い意識レベル相応だということです。

こういうのって、口で「あーしろ、こーしろ」言って、それに従わせてみたところで、あまり意味がありません。
確かにそうやっていれば失敗は少ないかもしないし、言う方も楽になるかもしれませんが、果たしてそれは本人にとって本当の学びになっているのかが問題です。

手元の目に見える短期的な失敗は減ったとしても、果たして未来はどうなるのか?ということです。
教育って、未来のためにやるのですから、短期的に自分の面倒が減れば良いってものではないでしょう。

ヘボいマインドを持って、ヘボい結果を出したら、それに真っ直ぐ向き合って初めて自己評価ができるようになるのです。
それを真摯に受け止めて、次のアクションに繋げる。
それができなければ、いつになってもヘボいままです。

オーストラリアへの発送直前だというのに盛り上がって参りました。

自分からやれない理由

最近の若いモンは出世欲が無いとか、かつては草食系とか…
そんなことを言われて久しいですね。
最近じゃそれがデフォルトになっちゃって、あまり言われないのかもしれませんが。

振り返ってみれば、私の世代あたりも多少はそんなことを言われていたような気もします。
だとしたら、30~40年以上前から徐々にその傾向は強くなってきているってことなのかな。

これ、端的に言うとハングリーさが無くなっているというようなことですよね。

何でだと思いますか?

そもそも、最近では自発性を十分に発揮する経験が少なすぎるのは当然として…

「やる」こと自体に疲れちゃってるというよりむしろ、「やらされる」ことに疲れちゃってるというか、飽きちゃってるというか、それが当たり前になっちゃっていて、「やる」と「やらされる」の区別が付いていないというか、そういうことなんじゃないかなぁなんて思うのです。

当事者にとっては、それが普通で当たり前なので、良く分からないのではないかなぁ、とか。

恐らく間違いないのは、自分で考えて、ジタバタとトライする経験が少なすぎたのだろうな、ってことです。
「こうすれば間違いないだろう」と言われることばかりやらされてきたのではないかな。
もちろん、そのお陰で世間で一般的に「失敗」と言われる経験は最小限で済んでいるのではないかとも思うけど。

果たしてそういう人生は、本当にハッピーなのだろうか?

でもこれ、本人の問題だけど、本人だけの責任ではないですよねぇ。これ、以前から言ってますが。

と、こういうのも大変興味深いネタで、日々考えるべきテーマの一つです。

教育の限界…かもよ

皆に同じことをやらせる教育、これはもう限界なのではないか…という気がしています。

一体何が限界なのかというと、それは「心」が限界なのです。
面白くもない、何のためか分からない「学習」と呼ばれる行為を皆が同じようにやって、延々と続けて、その成果を数値という定量的なもので評価される。
そんなことが限界なのだと思います。

今や日本は、周辺国に学力で追い越されているような話を聞きますが、そんなの当然じゃないかとも思います。

そもそも
皆が同じことができなければならないというのはどうなのか?
どこまで同じであるべきなのか?
それは誰が求めているのか?
それは何(誰)のためなのか?
良く分かりませんね。

そんなことは気にせずに、黙って言われたことを真面目にやって、できるようになれ!
とか言われても、動機が十分でなければ頑張れませんよね。
できれば楽してクリアしたいって思う気持ちは分かります。

学ぶのは重要なことですが、それは頭の中に知識を増やすことだけを言うのでは無いはずです。
もちろん知識は大事です。基本的に知っておくべきことがあるのは事実です。
が、それはゴール達成のためのツールでしょう。

ゴールを定める前に、まずは走りだそう!みたいなことになってるような気がします。それ、どうかしてるんじゃないですかね。
まぁ、見ようによっては、そういうのも面白いのかもしれませんが。

やはり、まずはゴールを定めるべきで、次にゴール達成の方法を考えて、最後にそのための手段を得る、というアプローチを取らないと、訳分からなくなると思うのですが、どうなのでしょう?
これ、ものをつくるときの常識的な手順ですが。

今の教育って
「まずは部分的なものを、何のためかは分からないだろうけど、あれもこれも沢山知りなさい。そうしたら何とかなるんじゃない?」
のようなやり方になっているような気がします。

何とかなることもあるかもしれないけど、それ、あまりにギャンブル度が高すぎると思うんですよ。

たぶん、一般的には逆の捉え方をしていると思います。
たくさん知っていれば潰しが利くだろう…みたいな。

でも、たくさん「知って」いたって「できる」わけじゃ無いし、さらに何のためかが定まっていなかったり、言われてやっているだけだったりしたら、その内容だって競争力があるレベルにはならないでしょう。皆が同じことをやっているのだから。
なので、多くの似たようなレベルのライバル達との過当競争になるのは必然。

もっと困るのは、それを人材として受け入れる側かもしれません。

それに、強い動機も無いのに、限りのあるパワーを多くのことに分散して、それらをまんべんなくできるようになりなさいって、凄く危険な戦略のような気がします。

でもまぁ、ここまで言って何ですが…
そうしたい人はそうすれば良いと思います。
目的無しに学ぶのが云々言いましたが、学ぶ事自体が目的だったりもする場合もあるでしょう。

でも、他の道が無いのはどうかと思うんですよ。
特に、ゴール達成のためにパッションを炸裂させるような。

そういうのって大きな価値を生み出せるはずだし、何より面白いと思うのです。